春の精液

2004年3月14日
 吐き出しておきます。
 もうこういう妄想はやめたはずだったのですが。
 やっぱ溜まったものは出さないと。

 僕の最初の記憶はとても陰惨な光景だった。母親はなにか犬のような巨大な獣に犯されていた。唾液なのか血液なのか、判別がつかず、とにかくねばねばして生理的嫌悪感を覚えるような液体が母親の肉体を浸しており、その母親の腹部のあたりに赤くて巨大な角のようなものが出入りしている。そのたびに母親は汚らしい歓喜の声をあげ僕は耳をふさぎたくなるがそれを許されておらず、さらに獣がこう宣告した。
 「こうして生まれたのがおまえだ」
 そうか。それで僕は納得した。僕はとてもおぞましいものだ。おぞましいものから生まれ、おぞましい世界を這いずり回る汚らしいものだ。陰惨な世界で陰惨な喜びと悲しみを浴びながら生きる物体だ。
 そう。だから僕は僕の世界を陰惨なもので埋め尽くそうとした。その陰惨な世界のなかでもっとも陰惨なものであろうとした。気がついたときには僕はとても強大なものになっていた。すべてを破壊できる力を備え、実際にすべてを破壊する。泣き叫ぶ子供の耳を引きちぎり、その耳に灼熱した鉄棒を突っ込み、死ぬことすら許さず、四肢を切断し、断面を縫合し自分の意志で動けぬ物体と成り果てたもののうえに糞便をまきちらした。血と腐臭。
 血と腐臭。
 粉々に砕いたレンガのような砂礫がどこまでも続く地平の真ん中に僕は立っている。周囲にはもうなにもない。僕は破壊するものを求めて蠢いた。そして、見つけた。
 僕は、僕の生きてきた時間のなかで、初めて美しいものを見つけた。
 それは少女の姿をしている。色素の薄い肌と、つくりものめいたブロンズ色の髪をもち、やや重たい印象すら与えるくっきりとした二重まぶたの下で、無表情な瞳がうつろな視線をさまよわせている。
 僕はそれを壊そうとした。その華奢な体を地面に叩きつけ、首を締めよだれをたらさせ、尿をもらさせ、ありとあらゆる体液を搾り出し、抜け殻となったその肉体を引き裂き陰茎を差しこみ射精を繰り返そうと思った。それは、近づく僕をぼんやりと眺めた。そして僕に背を向け、どこか遠くを指差した。
 「向こうに」
 こちらを見た。青い瞳がまっすぐに僕を見た。
 「黄昏の国があるよ。連れていって」
 赤茶けた大地の向こうに、オレンジ色の光がぼんやりと滲む。

 黄昏の国には、終わらない夕暮れがある。その国は終末の少し手前で時間を止めていた。僕と少女はその国でなにもせずに存在した。人影のようなものが現れては、海の向こうにある闇に消えていった。僕はなにもせずにそれを眺めていた。少女もまたそれを眺める僕のそばにいて、なにもせずにいた。

 あー、書くの飽きた。
 ということは、書きたいのは「これ」ではなかったらしい。自動筆記の人は半分おかしいらしい。

 あー。少女はいいなあ。僕はちっちゃい女の子をまるで聖なるものであるかのようにたいせつにしたいと思います。聖なるとかゆってもそれはちゃんとした肉体なので、僕は少女の肉体の一部を食べて生きたいと思います。無限に再生するので平気です。少女の尿を飲み、涙をすすり、白磁でできた人形を扱うみたいにたいせつに抱きしめます。そして僕は言葉とかも必要じゃなくて、ただ毎日「あー」とかゆって正体をなくした表情で生きます。生きてるってゆわないか、それ。ただ、空には青空があるといいと思います。地には緑があるといいなと思います。毎日が春でいつも摂氏20度くらいで暑くもなく寒くもなく、ぼんやりと曖昧な空気のなかで、ただ女の子を愛するための言葉を口にしながら、この世界がこのようであったことに感謝したいと思います。やがて人格とかなくして空気のようであったらいいと思います。永遠の春が続くその世界の大気になって女の子の周囲で意味もなくぼんやり存在したいと思います。春だといいなと思います。いつでも春だといいなと思います。悲しいこともさびしいこともないといいなと思います。そんな世界になんの意味もなくても、ただ楽しいことと嬉しいことだけがあって毎日笑っていられるといいと思います。僕は人格ではないので、ただ女の子がそのようであるために存在しているといいと思います。鳥が鳴き、風邪がそよそよと吹き、おいしそうなパンのにおいがして、ただ幸福であるといいと思います。すべて幸福であるのがよいと思います。意味も価値も必要じゃないと思います。

 ……まあ早い話、疲れてるわけですが。
 あー、ひさしぶりに爽快に電波出した。
 「魂の叫び」という、11歳にして子供を二人殺してしまった女の子について書いた本を読んでに中。俺はこの手の本が大好きだ。これに限らず、子供が性的虐待される本は大好きだ。そこにはあまりに愚かで欲望に忠実で、自分を理性で制御できない人間が多数登場し、人間の本性はこんなものなんだということを俺に見せつける。父親に犯される娘を見つめる母親。おまえはいらない子だといいながら性的欲求のためだけに娘を手元におく父親。殴打。強姦。放置。ありとあらゆる陰惨で残虐で救いのない光景がそこに展開される。
 そしてそれを読む俺は、ほとんど残虐な暴力的衝動を満たしてしまったような満足感をもって思うのだ。
 そうだ。これが人間だ。
 人間はこうだ。
 人間はこのように汚らわしく汚濁にまみれた闇のなかにうずくまっているのが正当な姿だ。人は欲望のままに生き、欲望の詰まった糞袋として生き、やがて野たれ死ぬ。
 そう思ったときに、さらに黒い喜びが湧き上がる。殺す。殺すのだ。人を破壊する。人を裏切り絶望させ苦痛に顔を歪ませ、それを見て笑いたいだけ笑い、助けると口ではいいながら殺し、愛するといって愛するふりをして裏切り絶望に陥った者をみて笑う。この世に自分の害毒を撒き散らすように、世界にも害毒が満ちていますように。破壊の欲望に世界が覆い尽くされますように。

 俺は自分を犠牲者と考えたく、犠牲者であることにある程度の心地よさを得ながらも、だれよりも犠牲者でありたくない。俺は理不尽な暴力と、継続する悪意と、物理的な孤独のなかで育ったが、しかし実際のところは命の危険にあったわけでもなければ、餓死しかけた経験があるわけでもない。ただ、だれも俺を愛さなかった。それだけのことだった。だから俺は中途半端な立場に自分を置きながら空想するだけの余裕を与えられていた。
 そう。犠牲者でなければ加害者であればいい。かつての子供の自分がいた世界を肯定する唯一の方法は、その世界観のなかでの強者であることだった。
 俺は、世界でいちばん美しい世界を夢想した。俺は孤独であること以外に選択肢がなかったので、孤独な状態のままでもっとも幸福になれる状況を夢想するしかなかった。いつかどこかに、それは現れる。無限の旅の果てに。そして同時に世界でいちばん醜悪な妄想をした。自分より力の劣ったものを破壊する妄想を。ものいわぬもの、死んでしまったものを陵辱する。支配と愛情の区別のない世界。精液と小便とゲロと、自分の肉体から出るあらゆる汚物で、もっとも穢れを知らない子供をぐぢゃぐちゃに汚す夢を。手足を切り刻み自由のきかなくなった身体をあざ笑いながら眼球を潰しそこに陰茎を挿入し射精する夢を。そして動かなくなった肉体にしがみつきながら「愛してるからやったんだ」と号泣する。
 どのみち俺の世界には俺しかいない。卑怯。卑屈。自尊心。約束。他者。社会。世間。常識。それらの言葉の意味が理解できない。

 そうして俺は自分の居場所をフィクションに限定してったわけだが。
 まあなんだかんだ言ったところで、到達点が知世になってさくらちゃんのおしっこするところ見たいですわではどうしようもないわけだが。過程はともあれ出力結果はロリペド。まあ平和なところに行き着いたもんです。しかしちっちゃいこのおしっこってなんであんなにいいんでしょうね。特に(かーどきゃぷたーの)さくらさんがいいです。「……たくさん出てますわ」とかゆって生唾飲み込みたいんですが。とーぜんさくらさんは顔を手で覆っているわけですが。

 いまテレビ見てたらヤケに柴田亜美っぽい絵のアニメがやってると思ったらドラゴンボールだった。ちなみにガッシュの筆箱の広告に出てくる気の毒なデザインの筆箱ロボットがメカ沢にしか見えなかった。
 どうでもいいんだけど、なんでこんなにドラゴンボールの作画がいいんだ? てゆうかキャラ名は知らんのだが、ピンクのヘルメットかぶったちっちゃいこ(胸はあるのだが)の腹部の曲線のラインにかなり変態ちっくなものを感じるのは絶対に気のせいではないと思う。あのちょっとふっくらした感じはちっちゃい女の子になみなみならぬ性的魅力を感じる人間が描いているとみた。てゆうか俺か。俺なのか。性的魅力を感じる人間。
 今年初めて「春」と呼べるような陽気の日でした。妄想する人はだれしも「妄想に入りやすい状態」とでも呼ぶべき条件というのがあると思うのですけれど、俺の場合それは「空気」と「音楽」です。冬から春に移りかけの空気のなかに沈丁花の香りが漂ってくるような状態がとても妄想的にヤバい。今日も今日とて職場からの帰り道、どこかから漂ってくる沈丁花の香りと自動車の排ガスのにおいが入り混じった空気のなかで、果てしない気分になってました。なんかこう、それはせつなさとか郷愁とかそんなふうにしか呼びようがないものです。たぶんそれは、人が本来経験しているはずの、いくつかの幸せな感情を俺は知らず、そうしたものはすべて自分の空想のなかにしかなかったからだと思う。自分のなかに閉じ込めておけない「幸福」に対する漠然とした憧れは、大気のなかに拡散していくしかなかった。物体の境界線が曖昧になりそうな、ぬるい春の昼下がりに。蒸し暑い真夏の夜に申し訳程度の林から吹いてくる微妙な温度差の涼しい風を顔に受けて。人気が途絶えて死にかけているようなビル街の真んなかで。俺はいつも抱えきれない感情を放出して、俺には見えないけれどこの世のどこかには存在していると信じていた、奇跡のような愛しい一瞬を夢みていた。

 最近、ちょっとしたきっかけがあって、エホバとかの新興宗教をネットであれこれと調べていた。読んでいて、気分が悪くなった。そこに描かれていたのは、あまりにかつての俺と似通った人たちだったから。違う点があるとすれば、俺の宗教は、俺に幸福な未来を約束しなかったこと。そして、俺以外に信じる人はだれもいなかったということだ。そして、俺はその世界を追い出されたあとも、焼け付くような思いで、その世界を愛しく思っている。

 たぶんフィクションは、俺にとって、その場限りの麻薬で、まやかしで、強いアルコール分を含む悪酔い必須の安酒で、安易な気休めを与える新興宗教のようなもので、俺を十年間の薄暗い闇に閉じ込めたもので、つまり現実に役立つ何者をも俺に与えなかった。
 そして俺は、世界中に叩きつけるような思いで、やはりこう書いてしまうのだ。

 それでも真実はそこにある。
 本当に美しいものは、そこにしかない。
 世界中のだれもが信じなくても、俺はそれを信じる。祈るように、それを信じる。

 沈丁花と排ガスの混合された夜の空気に漂う、歪んだセンチメンタリズムに狂わされながら、そんなことを思いました。

 とかゆっておきながら、こんな文章を書いた直接の理由は、祐巳すけがかわいかったからなんですが。アニメのキャプ画像で、祐巳すけの百面相がありまして。それ見てたら、急になんか心臓のあたりが異変を来しまして。ああなんていうのか、かつてならここで祐巳すけに対する思いを発狂しそうな螺旋を描きながらダメ神の導きで地底の萌え人の墓場まで上り詰めることができたんですけど、現在はその行為にもう意味がないことを知ってしまっているので、この感情をうまく爆発させる方法がありません。しいて言えば俺の世界が祐巳すけで埋まってしまえばいいのに、という感じです。いまこの瞬間、俺にとって世界中のどんな存在よりも祐巳すけが「おんなのこ」で、泣いたり笑ったり、百面相するすべての瞬間の祐巳すけが「おんなのこ」で、俺はそんな「おんなのこ」な祐巳すけのすべてにほおずりしたいという爆発的な欲求を抱いて悶える深夜の3時。だからそれはもう、祐巳すけがかわいくてしょうがないということでありまして、たとえば朝起きてパンにマーガリンを塗ってると祐巳すけがもうかわいくてぎゅーってしたくなる。靴をはいて「いってきまーす」っていうその声がかわいくて頭なでたくなる。ちょっと眠くてあくびしてるその顔もかわいくて独占して地下室に閉じ込めたくなる。いや、なりません。
 きっと祐巳すけがいちばん醜い感情を抱いて、だれにも見られたくないような表情で暗い部屋の片隅にいるときですら祐巳すけがかわいくてどうしようもない。全部を自分のものにして壊すくらいに愛したい。

 まあ、この感情が自分のどのあたりに起因してるのか、いまの俺は充分に自覚的なわけなんですけど、自覚的であることは快楽を損ないません。だって祐巳すけかわいいから。思考停止でもなんでもいい。だって祐巳すけかわいいから。ばかで不器用で愚かであらゆることに無自覚で、自分が生きてることぜんぜん疑問を抱いてなくて、あたりまえのように光の当たる場所にいて、いろんな人の愛情を一身に受けて、俺にとっては憎悪の対象でしかないそうした要素をそのまま含めてかわいくてしょうがないから。
 というようなことはさておき、祐巳すけとデートしたい。
 パジャマ姿の祐巳すけと一緒に深夜番組見てだらだらしたい。そんで、あいた襟からのぞく白い肌とか鎖骨とか見て瞬発的にこみあげる劣情になんとか耐えて、でも子供のころ雷が怖くてしがみついてきた祐巳すけの体の軽さとか不意に思い出して発狂したい。
 祐巳すけとジェットコースター乗りたい。

 あーもうキリないんでやめますね。
 ひさしぶりに自宅でゆっくりと腐れ妄想にどっぷりと浸かることができる環境を手に入れたので、どっぷりと腐れ妄想をする。宣言してから妄想する人間も実に珍しいが。
 実は(もなにもないが)別に本サイトってのを持ってたりするのだが、そっちでも検索のキーワードが「ちんちん」とかそんなんばっかであることを考えてみると、結局のところ俺はちんちんとかそんなんばっかであるような気がしないでもない。そう、そんでIRC上でも「おにゃのこのちんちん」などと伝言をもらう始末であり、そういえば昔の日記にはそうした記述が頻出していたなあとも思う。俺はロリであると同時にショタでもあり、つまりちっちゃいこならなんでもいいペド野郎だったわけだが、おんなのこ妄想には常にセンチメンタリズムの陰が伴っていたのに対し、おとこのこ妄想はダイレクトに性欲であったような気がする。これがリアルが対象だと裏返しになるのがおもしろいんだが、おんなのこ妄想のセンチメンタリズムとおとこのこ妄想のリアリズムな俺の屹立する欲望の合致したところに誕生したのが「おんなのこはちんちん生えてるのがいいと思います」と真顔で日記に書く悟りと彼岸の中間の畜生道であったような気がします。いや待ってくださいよ確かに「どっちが先に妊娠するか競争よ」の発狂しそうなセリフで俺の内部で有名な、おんなのこにことごとくちんちん生えてる漫画家はかなり好きなんですけど、でもなんていうかあのカチコチビーンっぷりはなにかが違うと思うんです。「ああっ、こんなかわいい女の子がこんなにいやらしい持ち物を股間に隠し持って、しかもそれが固くなってるなんて」というところに最大の喜悦を感じる人も世には多数(いてもらっては困るんだけど)いるわけですけど、俺としては「初めての勃起にとまどう女の子。しかし自分の中心に位置するそのうずく器官はどうにもならず、幼い手が、その幼い突起をぎこちない手つきで、どうにもならない罪悪感と羞恥心のただなかで弄ぶ」という、なんていうか顔赤らめて俯くようなそういう光景が重要だと思うんです。そして同じクラスの物陰で憧れと憎悪のないまぜになった複雑にもつれた感情をもって見つめていた、6年生にもなって半ズボンでサッカーやっちゃうような、でもちょっと釣り目気味の目がヤケにときとして女の子っぽいようなショートカットの女の子を見たときにですね、自分のスカートのなかで痛いほど張り詰めるモノを意識するわけですよ。そして自覚する。ああわたしあの子が好きなんだ。あの子が大好きで、ポップティーンの記事かお姉ちゃんの部屋にあったいわゆる枕本って呼ばれるような分厚い「ハゲシク純愛! 壊れるほど抱きしめて」とかいうマンガでしか知らなかったような、そういう欲望を強く抱いてるんだ。わたし、あの子をいますぐだれもいない放課後の教室に閉じ込めて二人きりになって、日焼けしてる足とか、サッカーの直後、ズレたTシャツから少しだけ見える鎖骨とか、そういうところにわたしの唇を押し付けて、汗の味とかシャンプーの香りとかそういうのいっぱいに吸い込んでくらくらしたいんだ。わたし変態なんだ。おんなのこが大好きなんだ。あの子が大好きなんだ。あの子があのきつい目でキッとわたしを睨んで、でもそのあと自分の置かれている立場がよくわかって、気弱そうな顔で自分から視線を逸らせるのを見たいんだ。だから、だから神様か悪魔か知らないけれど、女の子にはあっちゃいけないものをわたしにくれたんだきっとそう。わたしの心はわかってなかった。でも体はわかってた。熱いの。うずくの。あそこがわたしの中心になったみたいに。くっつけたい。こすりつけたいって。わたしのほとんどあるかないかわからないような胸とその先の敏感な場所と、あの子の傍目から見てもブラしないのが不思議なくらいにふくらんでる女の子らしいその部分と、触れるか触れないかくらいの距離で少しずつくっつけあって、いきなり頭のなかに炸裂する欲望に理性なんかあっという間に押し付けられて骨が軋むくらいあの子の肉体を強く抱きしめて。あの子の体液とわたしの唾液と、いろんなものを混ぜあって体中ねとねとになって、そしてあの子の、昨日までわたしにもあったおんなのこのたいせつな部分、あの子のあそこにわたしの固くなったものを押し当てるの。強く強く押し当てるの。なんて自動筆記は実に楽しいんですが、自動筆記がこの内容じゃあどうにもなりませんというか、33歳こんなこと書いてていいんでしょうか。いいんですいいんですむしろ33歳こそこういう内容のテキストをいっぱい書くべきです。本当かよ。
 でもその子はもちろん実際にはそんなこと実行できなくて、家に帰ってから体育祭とかのなけなしの写真をかき集めて、大好きなあの子を見つめながら自分を慰める。それは12年間分の欲望が凝りかたまったかのように何度放出しても繰り返し繰り返しよみがえってくる。わたしなにやってるんだろう。おかしい。こんなのおかしい。こんないやらしいものが突き出た女の子なんて。スカートをそっと戻して鏡に自分の全身を映してみる。ほら。スカートの前の部分。出っ張ってるのがわかっちゃうよ。自分で自分を嬲るかのように汚らしい言葉を口には出さずに自分に叩きつける。そうして不意に上に着ていたシャツやらなんやらを脱いでしまう。そこには、紛れもないおんなのこの上半身。触れると痛くなるような小さな膨らみ。そしてスカートをつけた下半身の前の不恰好な膨らみ。

 いーかげんやめときましょうか。この無駄なエネルギーをもっと仕事とかにぶつければいいんじゃないかな、という心の深奥からの声は完全に無視します。

 そーいやIRC上で考えた「ろーどひーてぃんぐたん」というネタがなんか気に入ってます。詳細は詳細を説明したうえでないとだれにもわかってもらえないと思われるうえに、わかったところでアホかおまえとか思われるのがオチだと思うので、あえて説明しません。とにかく微熱病弱少女というのが昔からツボで。その「自分の病気しか利用するものがない」という、しかもそのことがどれだけよくないことかわかっていながらなおそれを利用するしか自分の存立基盤がないという状態が極めて好ましい。かつてはそんな自分が嫌いでしたが、自分そのものが別に嫌いでないいまは、そんな自分が大好きです。もはや妄想ならなにを書いてもいいと誤解しています。以前、自分の過去ログを読んで「これは他人によくない影響を与えるテキストだ」とか非常に思ったわけなんですけど、影響を受けるのはその人の問題だからなに書いてもいいと思う。自分のテキストに対して責任感を抱くとしたら、それはそのテキストで金もらってるか最初から「影響与えるつもり」で書いてる場合だけだと思う。妄想というのは自分の内部から湧き出るだけのもので俺のテキストはそれをただテキストにしただけのもので、だから当人以外には基本的になんの意味も得ることができない。はず。もしなにかの意味を見出したんだとしたら、それは読んだ人が「見出したい」ものだったんだと思う。てな理屈はともかくおんなのこにちんちん生えてるのはいいと思う。同じクラスの男の子になって、そのちんちん生えてるおんなのこを大好きになってセックスしたいと思う。真顔で書くな俺。

がびーん

2003年11月2日
 あーだめ。
 疲れと寝不足とストレスで情緒不安定。
 店一軒、全面改装するのも楽じゃないですなあ。この小売特有の「一瞬も気の休まるヒマがない」というのは慣れていてもけっこうつらいもんがあります。心底から生き抜きできるときはないのですな。便所に入ってるときも「レジに呼ばれたらどうしよう」ってなもんで、常に速便を心がけるようになってしまいます。早飯早糞戦場の習い、ってなもんでしょうか。ここは戦場か。なんの戦場だ。俺が本性を隠してまともな人間のフリをする戦いの場です。最低だ。社会人としての自覚を持て俺。持たないとおしおきだ。11歳の勝ち気そうな瞳をした実際は完全な依存体質の女の子を連れてきてこう言わせるぞ。
 「お兄ちゃんなんか嫌い」
 がびーん。

 がびーんって……また懐かしい語感だな。

 俺は自分の書いたテキストはだいた片っ端か忘れてしまう人間なのですが、気に入ったフレーズみたいなのは稀に記憶していることもあります。
 「どこかに僕を罰してくれるわがままな幼女はいないか」っていうのは、かなり気に入ってるやつです。読んだ瞬間に「こいつだめだ」と思わせる圧倒的な香気に溢れているように思えてなりません。思えるもなにも本気の欲望だったので、手に負えません。そしてそういう人間はこう思うわけです。ああ、繭に迷惑かけられてえ。わがままな真琴をたしなめて泣かせてえ。そのあと謝りたおして機嫌をなおしたはいいがなおつけあがる真琴に振り回されてえ、など。
 欲望のかたちがとてもややこしい感じであることは、だめな人間としての必須条件であるような気がするのですが、どうでしょう。


 以前から坂本真綾の音楽が好きで好きでしかたなかったのですが、菅野よう子という人の作ったメロディとサウンドは、一定期間聴き続けていると必ず飽きる、という妙な特質があるため、ここ1年くらいはまるで聞いてませんでした。
 それがなにを思ったか、このあいだからまた急に始まりましたある日とつぜん「ユッカ」という曲が聴きたくてたまらなくなったのです。
 俺が坂本真綾を好きなのは、声質が好きとかそういうのもあるのですが、なにより彼女が19歳とかそれくらいの微妙な年齢であったためです(いまはいくつなんだか知らんけど)。
 たとえば「孤独」という曲があるのですが、これは19歳だか20歳だか、それくらいの年齢の女の子(というか女の人)がせつせつと歌うので、初めて猛烈な腐れポエム魂が俺のなかにわき起こるのです。片思いの苦しさみたいなのを歌った曲なのですが、たとえばこれで40歳近くになって「愛する人愛するために生きてくんだ、見返りなんてなにもない」なんて歌ったら殴ります。吉井和哉だけはちょっと許す。てゆかなに歌っても許されると思うあの人。最新シングルにも我が耳を疑うような情けない歌詞がてんこ盛りで、高校生の女子バイトに「なんかこの男むかつくー。言ってることガキじゃん」とか言われる始末。
 なんというか、ほかならぬ19歳の女の子が、抜けるような秋晴れの空の下で、自分の心の闇に翻弄されて一人孤独でいるような、そんな「風景」そのものがたまらなく萌えであるわけです。自分が孤独であるということ、あまりの苦しさに自分の心を空の高みまで放り投げたいような、そんな「はるかな心」みたいなの。
 結局、俺の心のなかに妄想という名の「物語」を発生させてくれるので、好きなんでしょう。なんだ、ふつうの聞きかたじゃん。でもあれ、あのーアメリカのドラマ、なんとかキャメロンって人が総監督やってて、ものすごい身体能力を持った子供たちを施設で育てていて、そんでロマンス的に見てて恥ずかしくなるような状況連発のやつ。なんでタイトルを思い出そうとすると「奥様は魔女」が邪魔するんだ。なんの関係もねえだろう。
 ともあれ、そのドラマの主役の声あててたのが坂本真綾だってのは気づかなかった。上手になったなあ(エスカフローネ対比)。ああ、主役の名前思い出した! マックスだ。


 さて。
 そんなわけで仕事でもしますか。
 店内が糞生意気な中学生でいっぱいだ。少しは引っ込み思案なみつあみのメガネっこで埋まってみやがれ。メガネにはなんの思い入れもないが。

 
 前日の続き。

 さて。最後の一服が終わったら帰ろう。

 そのあいだにも書けるだけ書く。
 そもそも俺にはオリジナリティがあんまりありません。俺のなかの妄想というのも、実は種類は少ないです。俺は別に妄想の内部のような世界で日々を過ごしたいわけではなく(かつてはそう願ってましたが)、俺が思うところの「美しい瞬間」を物語にできればいいだけです。昔はそれを絶対にかたちにしたいと思っていたものですが、最近では妄想でもいいじゃんとか思い始めており、非常に危険な兆候です。
 「美しい瞬間」には、必ず具体的な舞台設定が伴っており、それらをひっくるめて俺は「情景」と命名しています。それは、なにかの作品のなかにあることもあり、俺の内部に残ってどうしても消えない景色だったり、あるいは、自転車を漕いでいるときに見かけた、どうでもいいような光景だったりもします。そうした妄想に設定を与えて、自分の頭のなかで醸成する。その作業自体が好きなんです。これが「文章を書く」という俺の趣味と合体すると、そこに小説ができているはずなんだすが、なんで書けないんでしょう。だれか教えて。進まねー。最後の最後まで来ていきなりグチ。読んでる人びっくり。書いてる俺もびっくり。これだから自動筆記は。

 さあ。頭のなかを甘酸っぱい青春の息吹でいっぱいにしやがれ俺。
 
 このあいだから「釣りに行こう」という曲が頭のなかをぐるぐると回っている。
 現在ほかに回っている曲は「みのり組」のCMソングと、ニッセイのCMソング。この二つについては相当にいらいらするんだが、回ってるものは止められないので、放置。みのり組のほうは、あの踊ってる物体どもの常軌を逸して脳天気な表情と、限度を超えて浮かれた動きもムカついてしょうがない。あいつら射殺しようと思っても、上下動が激しくてなかなか照準が定まらなくてさらにいらいらしそうだ。
 あとムカつくっていえば、武富士のCM。「わたし、配る!」「わたし踊る!」。やかましい。てめえらの事情は俺には関係ねえ。勝手に配って勝手に踊りやがれ。てゆうかあのCMはいったいだれに向けて発信されているのだ。あれ、消費者にまったく関係ないのだが。まあ、妥当に考えれば「こんなに仕事をがんばってる健気な女の子がいる」という印象を喚起することによって、武富士自体のイメージをよくする結果を狙ってるんだろうけどさ。てゆうか、たとえCMであろうとなんであろうと「わたし、こんなにがんばってます」っていうのはすべて見苦しいことないか。なんにせよ、人はいろんな局面でがんばらざるを得ないわけなのだが、求められているのは、がんばった結果のほうだろう。CMってのは企業が自分の会社の利益を上げるために作ってるわけで、その「CM」ってフォーマットで「わたしたちがんばってるから、うちで借金してね」ってのはものすごくおかしい。そこで冒頭に戻ってこう言いたくなるわけだ。
 「勝手に配りやがれ。俺には関係ねえ」

 なんかCMの話で調子が出てきたので、このまま続ける。
 ニッセイのCMにしても気に入らないのは、そこに「だれにもアピールしない自己顕示欲」が見えるからだと思う。てゆうかニッセイナイスデイのころからムカついてしょうがなかったんだけど、あれ。
 このCMに関しては、正確にはああした「キャリアウーマン」みたいなものに共感できる人にとっては、ちゃんと機能してることが想像されるんだけど。あ、そうか。そうした人たちの自己顕示欲のありかたが気に入らないんだ。「キャリアウーマン」と「女」という別のフィールドにあるべきものが「保険」という商品を売るためにむりやり野合させられてる状況が気に入らねえ。仕事というものは、あえて断言してしまえば「人間が利益を生み出すための道具にされている」状態だ。もちろん個々の仕事に対しての責任感やプライドは、大なり小なりみなが持っているわけだが、ともあれ利益に奉仕する奴隷である以上は、そこに女だから、男だからという視点は入らない。現実的には入るんだけど、それは別の話題なんで放っておく。それを「女」の一点突破でなんとかしようとする意志がなにより気に入らない、という話。

 そんで、そもそも俺はなにを書こうとしていたのだったか。ああ、あれだ。「釣りに行こう」だよ。俺が聞いたのは、宮沢和史と矢野顕子とのデュエット。
 これが頭のなかを回ってるのだが、この曲で描写されている情景がえらい好きだ。そして、その情景も一緒に頭のなかに映っているため、つまり仕事中にまた妄想しているわけですが。
 せせらぎと呼んでもいいような田舎の川。川原には白くて丸い石が敷き詰められたように広がっている。夏。蝉の声。入道雲。たゆたうように流れるぬるい風。強い日差し。
 そんなエロゲで既出極まりない光景。
 大きめの石に座り込んで釣り糸を垂れている少年と、日陰で居眠りしている少女。自然の音以外はなにもしない、時間を止めたような田舎の夏の午後。
 そこで気持ちよく妄想するにとどめておけばいいのに、妄想はさらに発展。設定すら作り替えてしまっている。
 子供のころに少しだけ暮らしていた田舎。両親に連れられて、ひさしぶりに訪れる。そこで暮らしていたころの、少年の最後の記憶は、小学校2年生の夏休み。上述のような川原で見た、年上の少女。この場合、少女はどうあっても白いワンピース姿である必要があるのですけれども。16歳くらいで。
 そんで、5年ぶりに訪れた田舎。少年は中学生になっている。古くて大きい家に着くと、両親や親戚の目をかすめて向かう先は、あの川原。記憶を頼りにして、それでもさんざん迷って、汗だくになった少年の耳に届くせせらぎの音。近くに橋がないか探して、走る。
 細いけれど清冽な流れをまたぐ、古くてがっしりとした石橋を見つけ、降りやすいところを目で探し、そしてまた走り、草をかきわけて、息を切らして辿り着いた川原。
 少年は我が目を疑う。
 昨日まで家が建っていたところが空地になり、その空地が駐車場になり、2週間もあればその場所がコンビニに化けているような、そんな土地で暮らしていた少年からすれば信じられないほど、その場所は記憶のなかの映像と一致していた。
 信じられない。
 あのころのままだ。川も、石も、空も、風も、鳥や虫ですらも同じなのかもしれない。
 だから、少年は探した。
 あのころと同じならば。すべてが同じならば。
 そして、少年は見つける。
 強くて遠慮のない日差しが、すべてを容赦なく照らし、濃い影を与えている、なにもかもが明々白々としたその場所で、彼女の周辺だけが、幻のようにかすんでいるかと思えた。
 まだおさまらない早い呼吸と心臓の鼓動。それが走ったせいであるのかどうか。もう少年にはわからない。
 膝に手をつき、目を見張る少年の前で、幻が言葉を発した。

 「ひさしぶりだね」

 というような妄想を。
 仕事中に。
 この場合、少女は黒髪ストレートロングであることが絶対条件なのですが。あとくどいようですが白いワンピースですし、帽子なんかかぶっていれば完璧です。

 だいたいが「夏の少年」というテーマが俺は大好きなようです。最近ではイリヤなんかも典型的にそれでした。あと、俺の記憶にこびりついて消えない「夏の物語」といえば「大久保町の決斗」ですかね。自転車の荷台にヒロインを乗せて走るシーン。読んだものはほとんど忘れてしまう俺にしては珍しいくらい克明に覚えてます。

 上の妄想ですが、さらにいえば、再会した少女(とゆっても再会の時点では21歳になってるわけですが)は、心の病とかで、現実がわからないような感じになってるとなおよし。日がな一日、川原に座ってぼんにゃりとしており、それはそれで幸福そうな顔をしており、そして主人公にあたる少年のことだけを覚えており、記憶は15歳くらいでストップしていると、言うことはありません。俺の心の病気をそのままご無体なくらいにダイレクトに反映してるうえにオリジナリティのない設定。
 まあ、妄想だから別にそれでいいんですけど。妄想の主眼は自分が気分よくなることにあるので、オリジナリティの有無は問題ではありません。

駆け落ちマニア

2003年10月15日
 仕事が忙しい。
 俺はアドバルーンを監視する仕事とかしたい。もうね、楽して稼ぐことしか考えてないです。プライドもなにもいらないから生活保護でいいとかちょっと思う。
 なんてゆうんですか、働くのが嫌いな人間ってのはいるんだって話。そのくせ中途半端に凝り性なので、まあ、横浜でもそこそこ名の売れた店になるくらいの経営努力はしてるわけですが。てゆうかそうしないと潰れるんですが。怠け者が働かないのではなく、働く必然性のない人が働かないんです。独身だったころは「俺は給料泥棒だ」とか公言して憚らなかったもんなー。よくこんな人間クビにしなかったと思うようちの社長。


 さて、そんなわけで、怠け者である俺は、今日もかったりーとか思いながら仕事してるわけですが。
 それとはぜんぜん関係ないんですが、このあいだ、浜崎あゆみと駆け落ちしてる夢を見て真剣に鬱でした。しかし俺の夢の何割が駆け落ち妄想で占められているのか、ちょっと統計とってパーセンテージで表現したい気分です。そんなに駆け落ち好きか俺。ああ大好きだ。とはゆっても、実際には俺は「追われる」とかあんまり好きじゃないので、現実的には駆け落ちには夢をもちません。あくまで妄想の域を出ません。
 妄想はこういうときに都合がいいです。自分にとって都合の悪いことは排除できますので。あくまで甘美に。「行き場がない」「もう、二人でいるしかない」という、ほとんど自己陶酔に近い絶望。そんなのが好きだ。
 まあ、結局のところ、妄想のなかでは常に破滅体質です。入江さんの指摘は悲しくなるくらい正解です。確かに繭に関する妄想の行き着く先はあれしかなかったりします。

 しかし、人間の欲望ってのはややこしいシロモノだと思うですよ。俺にしたところで、生きていくっていう前向きな意志があり、人間は楽しく生きなくてどうすると思うと同時に、精神のややこしい袋小路の奥には破滅願望を飼ってるようなありさまです。しかもたまにエサまでやってます。それもまた自分の一部だと自分が容認してる時点で、負の意味しかもたないと重々自覚しているものでも平然と同居させている。それで別に違和感もない。
 俺が特殊なんだといえばそれまでですが、人間だれだってそう大差はないです。俺はたまたま「文章」というツールを使って自分の無意識みたいな領域に踏み込むのに慣れてるだけです。
 ほんとにさー、人間を見るのが好きな俺みたいな人にしてみると、人間ってのは複雑で飽きないものです。いくら馬鹿だのドキュソだのゆっても、じっくり見てるとその人を構成している要素みたいなものは無限に近いほど多くて、しかもそれがあちこちでぽろぽろと顔を出す。
 俺はあらゆるものに関して「意味」が気になる人間なのですが、というのは、だいたいのものにはそれがその場所に存在している由来とかそんなようなものがあるからです。それが、いま現在、その場その瞬間にそのようであること。その「理由」とか。その「理由」こそが「過去」ってことであり、俺にとっては「振り返ったときの膨大な時間」ということなんだと思う。そうした立体的な時間や空間の流れ。それ自体が俺にとって興味の対象。そんで人間こそは、もっとも多く「過去」を背負い、それだけ多くの「物語」を背負っている存在で、だからこそおもしろいんだと思う。
 ちなみにこの考えかたがフィクションに適用されたときに、俺にとっての妄想が起こるのでした。現実は、厳としてそこにあるので「そうでなかった過去の可能性」みたいなのは妄想できないけど、フィクションだと、ある程度融通が効くから、なお楽しくて、なお悲しい。

 ま、そんなような意味の通ってるようなまったく通っていないようなことを書きながら休憩が終了。

 ダ・ヴィンチという雑誌を読んでいたら「書いても書いても書き足りない人」とか「書く以外なにもできない人」みたいな記述があってぎくっとする。
 ま「書く」なんて行為をする人は、結局のところ、それ以外に自分を表現するチャンネルをあまり持っていないということなんですけどね……。しかも「言語」以外の表現手段をもっていない不器用な人。自分に関してはそのように規定してますが。言語の海の上で溺れないために、必死で言語という泥船を作り、言語の櫂で必死に漕ぐ。
 ああ、これか。
 必死だな(ワラ


 てなわけでしごとー。

言語必死だな(ワラ

2003年10月12日
 仕事が忙しい。
 俺はアドバルーンを監視する仕事とかしたい。もうね、楽して稼ぐことしか考えてないです。プライドもなにもいらないから生活保護でいいとかちょっと思う。
 なんてゆうんですか、働くのが嫌いな人間ってのはいるんだって話。そのくせ中途半端に凝り性なので、まあ、横浜でもそこそこ名の売れた店になるくらいの経営努力はしてるわけですが。てゆうかそうしないと潰れるんですが。怠け者が働かないのではなく、働く必然性のない人が働かないんです。独身だったころは「俺は給料泥棒だ」とか公言して憚らなかったもんなー。よくこんな人間クビにしなかったと思うようちの社長。


 さて、そんなわけで、怠け者である俺は、今日もかったりーとか思いながら仕事してるわけですが。
 それとはぜんぜん関係ないんですが、このあいだ、浜崎あゆみと駆け落ちしてる夢を見て真剣に鬱でした。しかし俺の夢の何割が駆け落ち妄想で占められているのか、ちょっと統計とってパーセンテージで表現したい気分です。そんなに駆け落ち好きか俺。ああ大好きだ。とはゆっても、実際には俺は「追われる」とかあんまり好きじゃないので、現実的には駆け落ちには夢をもちません。あくまで妄想の域を出ません。
 妄想はこういうときに都合がいいです。自分にとって都合の悪いことは排除できますので。あくまで甘美に。「行き場がない」「もう、二人でいるしかない」という、ほとんど自己陶酔に近い絶望。そんなのが好きだ。
 まあ、結局のところ、妄想のなかでは常に破滅体質です。入江さんの指摘は悲しくなるくらい正解です。確かに繭に関する妄想の行き着く先はあれしかなかったりします。

 しかし、人間の欲望ってのはややこしいシロモノだと思うですよ。俺にしたところで、生きていくっていう前向きな意志があり、人間は楽しく生きなくてどうすると思うと同時に、精神のややこしい袋小路の奥には破滅願望を飼ってるようなありさまです。しかもたまにエサまでやってます。それもまた自分の一部だと自分が容認してる時点で、負の意味しかもたないと重々自覚しているものでも平然と同居させている。それで別に違和感もない。
 俺が特殊なんだといえばそれまでですが、人間だれだってそう大差はないです。俺はたまたま「文章」というツールを使って自分の無意識みたいな領域に踏み込むのに慣れてるだけです。
 ほんとにさー、人間を見るのが好きな俺みたいな人にしてみると、人間ってのは複雑で飽きないものです。いくら馬鹿だのドキュソだのゆっても、じっくり見てるとその人を構成している要素みたいなものは無限に近いほど多くて、しかもそれがあちこちでぽろぽろと顔を出す。
 俺はあらゆるものに関して「意味」が気になる人間なのですが、というのは、だいたいのものにはそれがその場所に存在している由来とかそんなようなものがあるからです。それが、いま現在、その場その瞬間にそのようであること。その「理由」とか。その「理由」こそが「過去」ってことであり、俺にとっては「振り返ったときの膨大な時間」ということなんだと思う。そうした立体的な時間や空間の流れ。それ自体が俺にとって興味の対象。そんで人間こそは、もっとも多く「過去」を背負い、それだけ多くの「物語」を背負っている存在で、だからこそおもしろいんだと思う。
 ちなみにこの考えかたがフィクションに適用されたときに、俺にとっての妄想が起こるのでした。現実は、厳としてそこにあるので「そうでなかった過去の可能性」みたいなのは妄想できないけど、フィクションだと、ある程度融通が効くから、なお楽しくて、なお悲しい。

 ま、そんなような意味の通ってるようなまったく通っていないようなことを書きながら休憩が終了。

 ダ・ヴィンチという雑誌を読んでいたら「書いても書いても書き足りない人」とか「書く以外なにもできない人」みたいな記述があってぎくっとする。
 ま「書く」なんて行為をする人は、結局のところ、それ以外に自分を表現するチャンネルをあまり持っていないということなんですけどね……。しかも「言語」以外の表現手段をもっていない不器用な人。自分に関してはそのように規定してますが。言語の海の上で溺れないために、必死で言語という泥船を作り、言語の櫂で必死に漕ぐ。
 ああ、これか。
 必死だな(ワラ


 てなわけでしごとー。

夏の終わりのちんこ

2003年10月11日
 仕事が終わりました。超ちんこって感じです。意味なんかないです。不透明な未来に怯える不安な少年の日々を送りたいです。これまた意味なんかカケラもありません。頭のなかにそんな文章が勝手に出てきたので書きつけてるだけです。


 今日は中学生がたくさん来まして、とても疲れていた俺はもはやガキどもウゼーまじ殺すとか立腹する元気もありませんでした。かわりに自分が中学生だったころのことなどをぼんやりと思い出しながらレジを打っていたら、なんだかせつない気分になりまして、余計疲れました。邪念しかないのかね、俺。


 ふと気づいたのですが、書き込み画面の下のほうにタイトル一覧がありました。

 嗚呼、幼なじみ(2003-10-10)
抱きマクラちゃん(2003-10-07)
時間を止めて引きこもり(2003-10-06)
俺の愚息が木っ端微塵(2003-10-05)
記憶と名雪(2003-10-04)
前回の続き(2003-10-01)
「づしの森」の日々(2003-09-28)
よつばと(2003-09-25)
自分語り中断(2003-09-20)
今日の日記(2003-09-13)
54たんにめろめろ続き(2003-09-12)
54たんにめろめろ(2003-09-11)
54たん(2003-09-10)
名雪断ち(2003-08-31)
俺に近づくな!!(2003-08-30)
妄想の練習(2003-08-29)
あんまり妄想のない日(2003-08-27)
イリヤ(2003-08-26)
ぱんちゅぐちゅぐちゅー(2003-08-25)
リアルトラウマ持ち萌え(2003-08-24)
姉・名雪(2003-08-23)
名雪の肉体(2003-08-22)
テッサ=おもらし(腐れ等式)(2003-08-21)
キノ(2003-08-20)
ベイベ(岡村靖幸かい)(2003-08-19)
なんかもう。(2003-08-11)
脱糞にまつわる妄想(2003-08-04)
観鈴ちんの風下で(2003-08-01)


 最低だな。

 香里と名雪が大変なことになっているお話を書こうとするのですが、なかなか難しいです。なにより、香里はともかく、名雪は香里に対して性欲を抱くはずがないということがはっきりしているからです。どうやってもこの事実をねじ曲げられないんだ。香里は……まあ。ふつうにカノンやってても、名雪に恋愛感情抱いてるんじゃないかと疑えるくらい妖しいので、なんの問題もないんですが……。かといって、香里のほうからアクションを起こすかというと、それはあり得ないんです。よっぽど理性の壁が薄くなってるときで、ヤケにでもなってるような状況でもないと。そして、そんな状況に至るのを注意深く避ける人でしょう、あれは。


 ここまで書いて、あと書く時間がなくなりました。
 ここからあとはまた後日の文章です。


 忙しい! なんなんだこの忙しさは。
 平日の夜になんでこんなに客が押し寄せるか。
 店長として考えればいいことなのだろうが、予定が立たんわこんなんでは。


 てなわけで、今日もテキスト書き。


 今日は銀行に行きがてら、フィッシュマンズの「ナイト・クルージング」なんか聞いてたわけですが。
 「窓は開けておいてよ。いい声聞こえそうさ」という歌詞を聴いて、ふと魂がポエマーの人の言葉の使いかたってのはこんなものなのだろうな、とか思いました。
 夏の終わりの夜のドライブ。
 窓から入ってくる風は、暑熱の向こう側にある秋の気配の、もどかしいような歩みを感じさせる。熱と涼気。入り乱れる世界。
 てな空気のなかで、この「ナイト・クルージング」という曲は着想されたと思うのですけれども。
 窓から入ってくる風は確かに気持ちいいと思うのですけれども、だからといって「いい声」なんて正体の知れないものが聞こえてくるはずがありません。この詞を書いた人にとっては「いい声」とか「いい音」とか、そういうものを聞くのが快楽であるに違いなく、だから「いまのこの気分のよさ」を「いい声聞こえそうな気分」ということで表現したんだと思う。感情や感覚に勝手に言葉が乗る。その言葉が、たとえ他人には容易には理解できないとしても、なにか異様にセンシティブで、たとえば「言葉」という不便なメディアを媒介しているにもかかわらず、他人の無意識にそのまま届くような状態であるとき、それは「詩」と呼ばれるのだと思うわけです。
 そういう言葉を綴るためには、その人の感受性が生のままで何者にも(常識とかそういうの)に汚されていないことが前提条件として必要で、さらには、無意識の領域まで、深く「言葉」というものが浸透してないと厳しいでしょう。
 逆に、用語としてあってるかどうかはわからんけど、言葉を「意味」としてでなく、イメージとして把握することが、詩を読む人に求められる素養なんだと思う。イメージや感情、そのほかかたちのないもの、だれにも共有されずにいる不可解なものに、なにか言葉が張り付けられているような状態。それこそが詩の原風景なのかな、と。
 そう考えてみると、言葉というのはまことに不思議なもので、だれにでも共有されなければ意味をなさないものなのに、詩という場においては、言葉を発信した人と、それを受け取るあいだに「意味」において確実に誤差があるはずなのに、その誤差を超えて心にそのまま届く「可能性が」ある。それはなにか、とても奇跡的なことだと俺は思う。
 問題は、そんな奇跡的な出会いがそう転がってるはずもないってことなんだけど。

 ああ、もう一つ、詩を書くために必要な資質があった。
 世界と断絶している魂の遠吠えでなければならないってことだ。それが絶叫であろうと、悲しみであろうと、あるいは日常のなかの些細な幸福をしみじみと噛みしめるための言葉であろうと。

 詩は孤独な世界から生み出されて、孤独な心に届く。
 それで俺はいつも思うのだ。悲しい国から生まれて、悲しい歌をうたう人々が常にいるのだと。

嗚呼、幼なじみ

2003年10月10日
 仕事終わった。
 さすがに2.5連休もとってしまうと、復帰が億劫でいかん。ところでテレビで「ばせいを浴びせられて」とかさんざん字幕が出てたけど、あの「ばせい」ってひらがなはどうにかならんのか。あれではそもそもが「罵声」という単語を知らない人にとってはまるで意味がわからない記号になってしまう。「唯一」を「ゆいつ」と発音してその由来がわからないのと同じような状態になってしまうと思うのだが、どうでしょう。言語なんぞ変化に任せるしかないもので、どうにもならないのだが、自分が生きてるあいだには、あんまり醜い日本語は見たくないと思うです。


 自転車が好きなので、宮尾岳の「アオバ自転車店」なんか読んでみました。えーと、反射的に魔物ハンターなんて単語が浮かぶあたり……。この人のマンガはけっこう好きです。
 内容は自転車を小道具に使った「ちょっといい話系」なのですが、これが実にソツがなくてうまい。最近、諸般の事情により熱心にお話なんか書いてるのですが、あれほどの手練れになるまでいったいどれだけの時間がかかることか。あるいはなれねえのか。
 老夫婦の夫が死んでしまう話がそのなかに収録されていたのですが、俺、ああいうの弱いです。基本的に人が死ぬ話には弱いんです。共有してきた時間が瞬時にしてブッたぎられることの理不尽さ。その欠落の大きさ。そんなものがダイレクトに襲ってきて、どうにも悲しくてやりきれません。
 そう。幸福な時間の積み重ねとその終焉。
 俺が、老人が過去を振り返るような、そんな話に無条件に弱いのも、結局「振り返る」という作業そのものがせつなく、かつはその「取り戻せない」時間への哀惜の念というのがどれだけ悲しく、愛おしいものであるかを勝手に感じ取るからでしょう。
 俺はまた同時に時間の流れのない楽園、というようなものも大好きです。嘘もなく偽りもなく、それゆえにそこには真実も信頼もない。そこは現実ではなく楽園だから、真実から虚偽へと至る無限のグラデーションのようなものはない。ただ、自分がいて相手がいる。それがすべてだから、愛し合って生きる以外なにもできない。そうした極めて幼児退行のような世界観が大好きなんです。
 ただ困ったことに、その世界が心底美しく思えるのだとしたら、それは必ずや「終わり」の予兆を伴っていなければならないんです。俺のなかでは、って話ですが。まあ、理屈で考えても、すべてが満たされている楽園なんて、なにもないのと一緒だから、そこに心の動きや感動みたいなのが発生するはずがないわけで。
 続かないとわかっている。いま、この瞬間に奇跡のように存在している、ほとんど二人だけで築いたような楽園。そんなようなものが萌えなんですよ俺は、という話。俺のなかでは、この「楽園」と「過去への憧憬」はよく似たところに位置しており、それはとても悲しく、また美しくて愛おしいものです。
 そうだよなあ。死別が悲しいのも、だれかが死んだ瞬間、その人と共有した経験が瞬時にして「記憶」へと強制的に変化させられるその力の理不尽さのせいだもんなー。

 そんなようなことを考えてたら、やっぱ名雪のことを結局は考えている俺でした。そんなに愛しいかね。病気ですか一種の。なんてゆうのか、フィクションの世界にはもう入れない、そのことをつくづく思い知らされてから以降、よりいっそうの切々たる思いをもって名雪のことが思いやられます。やっぱ、もう手が届かないからね。かつて持っていて、いまは失ったもの。そうしたものは、愛しい。


 さて。
 名雪が大好きはわかったのだが、俺は今後、名雪を題材にした以外のものを書けるのでしょうか。マリみてによほど俺好みの感情を見出せれば書けるのかもしれない。白薔薇さまだけかなあ、共感を覚えるのって。乃梨子に対する感情は、はっきりと意図的な誤解を含んだ憧れでしかないし。
 観鈴ちんのことは、やっぱまだ心のどこかが、深く関わるのを拒絶してるみたいだしなー。あんま深く抑圧してしまうと、意識のレベルでは「興味を失った」という結論を出したりしてしまいがちなので、注意が必要です。
 少なくとも、夏の海風に吹かれて立っている観鈴ちんのことを平静で穏やかな愛しさをもって見れるようになるまでは、無理だろうなあ。


 ああ。いかん。また妄想が……。
 あんまり鮮やかな妄想は困るんですが。

 なんかいまの俺の感情を上手に乗せられるような、そんな情景が思い浮かばずに欲求不満の感じ。
 広大な世界のなかで、人々がありのままに生きているような、そんな世界を俺のなかに築きたい。そこには名雪もいて、観鈴ちんもいて、すべて俺が愛してきたような存在がいる。みんなが思うように自分であることが可能で、その限りにおいて、悲しみ、苦しみ、やがては幸福になる。そんな世界を築きたい。


 あー。観鈴ちんの幼なじみになりてえ(今日の結論)。

抱きマクラちゃん

2003年10月7日
 さてと。
 横浜は元町にあるドトールからあらゆる意味でだれの役にも立たないテキストをお送りします。
 俺が精神をあらぬ方向に飛翔させるための重要な小道具である音楽を聴くための道具を忘れてしまったため、いまひとつそんなにふつうな感じのテキストになってしまうかもしれませんが、だれの期待にもかたえなくていいというのは気楽なもので、俺はただ暇つぶしにテキストを叩いていればいいだけの物体ですが、レジに行列する人々がどんどん俺のノーパソの画面を見れる位置で通過していくのが少し気がかりです。こんな状況下において巨乳小学生なんて語義矛盾だとかそんなような主張を堂々と書きまくるだけの度胸はさすがの俺にもありません。だいたいさすがとかいって何様のつもりだ貴様という至極もっともな抗議の声に対しては、すいません結婚してもなお年端もいかない女の子に対する妄執の念やみがたき罪深い生物でごめんなさいとでも開き直った態度でほざくしかありません。それはそれとして、このドトールのレジの女の子が児童福祉法違反な感じの外見であるのがさっきから気になっていますが、いきなり「こんにちは。無毛ですか?」とも聞くわけにもいかず、ああいまレジから出てきたのですが、脚がヤバいくらい細く、パンプスのカツカツいう音が痛々しく響いて思わずさすりたい、というのは性欲の発露というやつだと思います。しかも表情の種類が少なく、健気なまでによく働きます。

 さて、ウォーミングアップも終わったところで。
 てゆうか寝不足なんですね早い話。

 なんかちっとはまとまったことを書かなければ。別にまとまっていなくても文章を書くことはできるのですが、さすがに退屈してしまいます。


 最近(に限らず、だけど)IRC上では抱き枕が比重に熱いようであり、俺も抱き枕についていろいろ考えるところがあり、そうだ、抱き枕に自我があったらどうだろう、などと考えてみました。しかしこれはいろいろ気の毒な状況であり、いっそのこと生身の女の子がいたほうがいいに決まっているだろうという極めてあたりまえの結論に達してしまい、驚愕に目を見開きました。
 しかして次は、人型の抱き枕はどうであろうと考え、これがはるか以前に呼んだみたおんしゃの同人誌のネタであることに思い至り、もうなにもかもいやになりました。しかしあの「抱きマクラちゃん」というのは余りに秀逸なアイディアであり、俺もぜひ一体欲しくてたまらない日々がありました。お洗濯と称してお風呂に入れられる抱きマクラちゃん。俺の体液で汚れて「うわーん、よごれちゃったよー。おせんたくしなきゃー」と泣く抱きマクラちゃん。お洗濯は自分ひとりではできないわけで、当然、お洗濯してあげるのは持ち主である俺の義務となります。当然、洗う部位には著しい偏向があり、執拗に同じ部位ばかり洗ううちに、抱きマクラちゃんの切れ切れの声。
 「抱きマクラちゃん、おせんたく……すき……。きれいになるの……きもちいいよぅ。はぁっ」
 などという声を聞いているうちに、もう一回お洗濯が必要な事態になってしまうという、そんなエンドレスな「抱きマクラちゃんと俺」を夢想した日々。というか実のところ、当時そんな妄想をした覚えはあまりなく、したがってこの妄想は正真正銘、いま現在、ドトールでテキストを叩いている俺の妄想ということになります。白昼堂々、頭のなかは抱きマクラちゃんとの楽しい入浴のことでいっぱい。かつてならここで、以下のような妄想が追加されたことと思います。すなわち、だんだんと知恵がついてきて、自分のいる場所が狭い家の一室であり、扉の向こうには広大な「世界」が広がっているということを知る。しかし「抱きマクラ」であるという自分の存在意義に対する絶対の「縛り」を逃れることができず、成長していく精神とのジレンマのなかで、徐々に本来の「抱きマクラ」としての機能を全うするための意識的に己の自我を消滅させていく抱きマクラちゃん。抱きマクラちゃんとの美しい日々を失うことの恐怖に怯えながら、それでも抱きマクラちゃんが完全に自分のものとなる、その絶対の「支配」と悲しみの甘美さに恍惚となる俺。そうして抱きマクラちゃんは単なる人型の物体と化し、俺は抱きマクラちゃんを抱きしめて壊れそうな悲しみに耐えながら、わけもわからず自分のちんちんを握りしめ射精を繰り返し、もうお洗濯する必要もない抱きマクラちゃんの白い肌を汚らしい液体で汚すことに戦慄するような快感を覚える、などなど。
 まあ現在ならば、いかに抱きマクラちゃんの肉体をいやらしく使用し、二人で快感の奈落に落ちていくか、というくらいの思考法しかはたらかないので、そのへんは脳天気で平和だと思います。

 そういや俺、自分のことをあまり妄想しない人間だと思っていました。いきなりの大ブーイングが想像されますが、ふだんの俺はそこまで妄想


 ここまでで書く気をなくしたようです。
 相変わらずもいいところですね。
 あー、澪に俺の指をしゃぶらせたい。
 さて。
 仕事も終わりかけです。連休最終日というのは、夜になるとヒマなものなのでした。

 いよいよ秋だ。今年も秋がやってきた。
 例年秋はよくないです。神経が過敏になります。精神が、大気のなかのいろんな存在するはずのない微粒子を吸収して、ろくでもない妄想を育みます。それはたぶん、精神の大きな糧だとも思えるのですが、同時にこの正体が知れないようで、しょせん正体の割れている漠然とした悲しみが、なんとはなしに痛いという事実に変わりはありません。
 俺のなかで「少女」というのは、自分の感受性に翻弄されて、不安定になる状態がそのまま好ましい景色を作っているような存在です。それは俺が妄想のなかで勝手に規定した「少女」で、現実ではありません。夢の少女です。そして俺は果たし得なかった夢として、そうした存在になることを、心のどこかで諦めきれないでいます。たぶん、ほかにも果たし得なかった夢というのはたくさんあって、そうした無数の夢のかけらどもが、秋の空気に含まれる成分と腐れ反応を示して、漠然と悲しくなるんだと思います。
 そうした秋の愁いに身も心も浸すことを許されているのが、俺のなかでは「少女」だということです。これ自体が腐れ妄想なので、俺の妄念は秋の枯野や川原のすすきの原を駆けめぐり、いやな感じに自家中毒を起こします。
 でもまあ、その行為自体が俺の感受性にとってしか意味がなく、そのことについて悩むことが現実的にどういう利益をももたらさないことがわかっているので、俺はただ夜の公園にぼんやりと座って、街灯に照らされる草原で月を見上げる観鈴ちんを想像して、皮膚を通じて浸透してくる透明な悲しみをしみじみと味わうくらいの余裕ができました。まあ、結局のところ秋はよくないんですが。それと同じくらい、俺は秋という季節が好きなんですが。

 いまにして思います。
 観鈴ちんや、真琴や、そうしたものは、俺にとって悲しみの依代のようなものだった、と。名雪やみさき先輩はそうではない。どこが違うのかということは、考えるのも物憂いし、てゆうか考えるまでもなく明白だから考える必要もないです。
 観鈴ちんの悲しみは俺の悲しみであり、真琴を失うことは、自分のなかのたいせつなものを失うことと同義でした。ごく控えめにいって、それだけ切実に俺に近いものでした。忌憚なくいえば、俺自身でした。
 俺が観鈴ちんや真琴に見出したもの、それはだれもが必ず保っているけれど、意識することがないようなものです。意識することが不幸であるようなものでもあります。それはまた、だれにも理解されず、理解を求めることはもっとも根源的な甘えであり、にもかかわらず理解されることを永久に求め続ける、御しがたいものでもある。
 そうである以上、それは永遠に消えず、だから俺のなかの観鈴ちんや真琴の姿も永久に消えない。俺の内部にあらゆる瞬間に存在し、この世界のどこにも存在し、そうであるがゆえに永久に消えない。
 悲しい、と俺はいい、世界中のだれもが共感する。
 悲しい、と俺はいい、世界中のだれもがそのことを理解しない。
 悲しい、と俺はいえず、だから俺は悲しい。
 そんなような気分が襲ってくるから、秋は悲しい。


 さて。
 順当にいやな感じで盛り上がってます。
 ほかに書くことなかったかな。
 そうそう。2ちゃんの葉鍵板で繭のキャラスレを見てたんですが、そこに書かれたあらゆる腐れた妄想を見ているうちに、ひょっとしてこのスレにいる人間はみんな俺ではないかと思えてきて困りました。どうして繭を好きな人はあんなだめな妄想ばかり抱くのでしょう。嬉しくてたまりません。
 ただ、それに付随して繭に関する大量の腐れ妄想が発生してくるのだけは困ります。女の子に自我など必要ない!!という年来の確固たるまちがった主張と確信が、もこもこと盛り上がってくるのを抑えられません。最初に繭のシナリオをやったときのことはいまでも忘れられません。なにしろ繭が自立の兆しを見せはじめてから後はほとんど覚えていないというあたり、自分の業の深さをまざまざと見せつけられるようで実に誇らしいです。どこかにはきっと、繭のような存在がまったく自立せずに、愛玩動物として生きていくような心躍るエンディングをもったシナリオが存在するのかもしれません。むしろ存在しろ。
 さすがに職場なので、繭にはトイレで用を足すことを教えずに、お風呂場でぼくの前で必ずするんだよって教えたいとか、牛乳は必ず口移しで飲むこととかそんな気が狂ったような妄想は書けませんが、でも繭には羞恥心とかまったくなくて、俺の前で平然と自分を慰めるような状態でいてほしいし、俺は繭が気持ちよくなる手伝いをしたい。外にはあんまり出ないから、二の腕とか抜けるように白くて、俺はその二の腕をはむはむするのが大好きだとか「おそとにでたいのー」などと言って窓の外をせつなげに見る繭を後ろからぎゅーって抱きしめて「外は怖いことがいっぱいだよ。だから、ずっとおうちのなかで、二人だけで暮らそうね」なんて言ったりしたい。監禁なんてしない。ただ繭は「おうち」という狭い世界しか知らずになにも知らずになにもわからずに薄ぼんやりとした世界観のなかで、濁った瞳をしているのがいいなあ。そして永久に13歳であり続ける。そんな夢。繭は俺の愛玩動物になって、俺のきたない欲望をすべてあるがままに受け入れる道具になる。俺は繭の欲望をかなえるための装置になり、繭が知るたったひとつの世界になり、時間を止め空間を閉鎖し密閉された最小単位の社会を形成し、やがてモラルも法律も男も女もない世界で互いの欲望ひとつを媒介にして溶融する。そんな身勝手で甘美でだれの諒解も共感も得られなくて反吐の出るようなユートピア。

 向こうのほうでバイトが談笑しているのを聞きながら、それでも俺は繭と一緒に暮らすそうした日々の出口のない感じに惑溺したい。33歳、出口なし。
 ……人間、そう変わらないということをいまさらのように思い知る。

 てゆうわけで、なんか楽しい気分になってきたのでこのへんださようなら。また明日。
 仕事が終わりました。
 朝のパン屋のイートインコーナーにてテキスト書いてます。昔からこういう場所で文章を書いたり本を読んだりするのが好きで。タバコを吸えないのが唯一の難点ですな。くたばれ禁煙、てめえなんかちんこだ。


 まあそりゃそうと。バッテリーの保ちの問題もあるので、あんまりだらだらと文章を書いてるわけにもいかないのですが、俺から「だらだら書く」という部分を奪ったら、あとは幼女に対するかたいちんちんしか残りません。なんかこう、幼女姦のためにだけ生きている妖怪のような存在みたいで、そういうのもかなりいやな感じですが。少なくともパソコンの電源を入れたまま、ぼーっとなにも書かずにいるのがいちばんもったいないことはまちがいないです。


 というわけで、思いついたままにてきとうなことを書いていきます。いつもそうですが。本当に思いついたままなので、マニアくさい話題ではないかもしれませんが、それもふだんからそうかもしれません。


 俺の職場は横浜市中区のなかでも、中途半端に海に向かって突き出した半島のような形状の地域にあります。かつては米軍の住宅があった地域で、この地域に住む現在25歳以上の人は、その施設のことを「ハウス」と呼んだりなんかして臨場感満点です。
 米軍住宅が返還されたことにより、綿密な都市計画のもとに再開発が進められて現在に至ります。
 まあ、実にロケーションのいい場所ですな。
 ……あれ。こんだけか。別に書きたいことなかったらしい。
 無理に続けると、俺はこうした都市計画に基づいて作られた人工的な街がとても好きです。自然も嫌いではないのですが、虫がいっぱいいるのでいやです。俺は確かに函館という田舎の生まれ育ちなのですけれども、北海道はそもそも虫が少ないうえに、俺の住んでいたのは都市部でしたので、へたな横浜の片隅よりよほど都会だったりしたのです。横浜に引っ越してきた当初、中学校への通学路の途上に牛を飼っている農家があったのはショックでした。
 ビルや人工的な都市、そして摩天楼というようなものに対する素朴な憧れのような感情は、たぶん俺の育った函館には当時7階建て以上の建物がなく、そして最初に東京へ飛行機で来たときに乗った羽田のモノレールの車窓から見えた浜松町やら田町やらのビル群が強烈な印象をもって俺の脳裏に刻み込まれたからではないか、ととりあえず説明をつけてみることにします。振り返ってみれば、俺は地下鉄やビル、そして地下街、建て込んだ下町の迷路のような路地、そうした「人の集積する場所」としての都会に特有の風景や事物を愛してきたような気がします。単にそれらしいこと書いてみたいだけなのであまり信用しないほうがいいです。
 自然は自然でいいのですが、生のままの大自然とかいうものは、なんの感興も呼び起こさないばかりか、あれ怖いっすよね。海とか。夜の海とかめちゃくちゃ怖い。あれ、入ったら死ぬし。山も怖い。あれ登って落ちたら死ぬし。噴火して溶岩流れてきたら死ぬし。緑も怖い。虫多いし。変な樹液とか体についたらいやだし。触手めいた植物とかいて、俺の体内に淫液を注ぎ込みながらうねったりしたら、かつて経験したことのない、次元の違う快楽の虜になって、淫蕩でだらしない笑みを浮かべて、よだれをたらしながら襲い来る快感の波にただ翻弄され続ける子猫ちゃんになってしまいますし。そんな植物はさっさと伐採してしまうがよい。しかし伐採しようとして近づいた、京都大学農学部の助手の女性(28歳)は、触手のような植物に襲われて、四肢の自由を奪われ、口といわずアナルといわず、体中の穴という穴に、くねくねとのたうつグロテスクなかたちをした快楽の化身の動きの淫猥さに恍惚とした表情を浮かべ、半分白目を浮かべながら、そろそろなに書いてるんだかわからなくなってきました。そんなに触手好きか俺。いや、どちらかといえば好きではないのですが。なんというか、このあからさまにポルノくさい文章とかそういうの書くのが好きで。ポルノそのものが好きなわけではないし、コンビニによく置いてある「欲望特急」とかそういう文庫ではちんちんが怒張しないので、やっぱり興味がないのですけれども、それでもあの紋切り型の濡れ場描写の形式が好きで。俺はそもそも「文章を書くのが好き」なのであるので、型に乗っ取って無限に文章を生産できるような、そういう演歌のメロディのような「型」というものがけっこう好きです。同様の理由によって、脳味噌から流れてくる壊れたラジオの壊れた電波にチューニングを合わせてテキストに変換するのも大好きだ。

 む。そろそろ時間がない。俺はそう呟き、すでに痛いほど怒張した肉茎を、少女のまだ開ききっていないつぼみの割れ目にすりつけた。少女は始めての感触に驚きを隠せないのか、ふぅ、と吐息のような声を漏らす。その声を聞くことで俺の興奮はいやおうなしに高まり、いきなり射精していやぁーおじちゃんのみるくべとべとー、てなところでまた来週。小悪魔のような笑みを浮かべながら、その紅葉のようにいとけない手にべっとりとこびりついた俺の欲望の証の白濁をぺろりと小さな舌でなめ取って言う。「ふふふ。おいしー」。その瞬間、俺の理性は来たぞ俺のビッグバンとばかりに木っ端微塵に砕け散り、ついでに我が輩の股間の逸物もビッグバン。頭のなかにはファンファーレが鳴り響き、血管を浮きた立たせてビビーンカチコチってな勢いでありまして、少女はその俺の凶暴な情熱に、やわらかくてちっちゃい手でそっと触れると愚息が二回目の大噴火。触っただけで大噴火!! 俺の股間がパイルダーオン!!
 さようなら。

記憶と名雪

2003年10月4日
 さてと。
 仕事が終わりました。
 今日はひさしぶりに時間に余裕があるので、なんか文章を書いてから帰ることにします。


 「魔探偵ロキ」なんか購入。本屋にいっぱい並んでたから。そんだけ。すっかりハヤリモノにも疎くなってるからねえ。なんとなく表紙に目をひかれた。しいていえばそれが購入理由。おもしろいかどうかはまだ読んでないから知らない。


 どうも仕事がやけに忙しく、しかもかなり本気にならなければどうにもならない状況のため、かなり神経がささくれ立っているもよう。こうなると現実しか見えない。さっきまではまちがいなく夢の世界に立っていたのが、あとで思い出そうとすると、あとかたもなく消えている。
 現実とフィクションをきっぱり分けようとする俺の精神の構造は昔から変わらない。なんか一種の二重人格みたいだ、現実をみている俺は夢をみることを知らず、夢をみている俺は、現実をみることを決してしない。ほんとはこれが融合されてより高次の人格みたいなのになったとき、俺という人間は完成するのかもしれんけど、そうなったら、なんかいろいろなものが終わりそうな気がする。


 なんか寝てた。
 妄想と夢の中間のような景色を見ていた。
 いつか写真で見た、宮古島の景色のなかを歩いていた。さとうきび畑のなかをうねるように続く白っぽい土の道のうえを、なにかを探しながら歩いている。太陽が強烈に照りつけ道を焼く。そして俺をも焼く。
 その風景を俺は俯瞰していた。
 いや、単にそれだけ。
 なんか沖縄が好きなんです。行ったこともないし、飛行機は苦手だし、船もあまり長時間乗っているとえらい気持ち悪くなるので、沖縄に行くことが難しい。
 馬鹿みたいに青い空と、海。三線の音。ノロ。御獄。
 そんなありきたりのイメージで俺のなかの沖縄像はできあがっている。たぶん、実際に行って確かめることはない、そのイメージを俺は愛する。
 だらだらと書き続けます。
 昔「PSY・S」というユニットがありまして、その片割れの松浦雅也という人が書いていたエッセイのなかで、いまでも俺の記憶に残っている言葉がある。
 その文章が書かれた当時「ブルガリアン・ヴォイス」と呼ばれていた音楽がたいそう流行だった。ポップス畑の人でもその複雑な和音やリズムを要素として取り入れる人がけっこう多かったんですが、それに関して、松浦雅也はこう言っていた。

 「実際にブルガリアン・ヴォイスと共演した作品の多くは、ほとんど失敗に終わっている。純粋に自分のイマジネーションのなかで、ブルガリアン・ヴォイスというものを捉えて、自分の作品のなかで再構築した人の作品こそが素晴らしい」

 たぶん大意はあってると思います。
 で俺は、ああ、なるほど、と思った。

 ブルガリアン・ヴォイスというのは、もともとはブルガリアの農民が歌っていた民謡で、それを19世紀の終わりだったかに。フィリップ・クーテフという人がクラシックの素養でもって再構成した音楽のことです。もちろんその人もブルガリアの人だったわけだが。
 人が生活のなかで歌っていた音楽の髄の部分。それは、その風土のなかで生きている人にしか意味がない。その風土のなかでしか生きられない。聞く人が感銘を受けるのは勝手だけれど、それはあくまで、違う文化、違う社会のなかで自分を形成してきた人が描いた勝手なイメージでしかない。
 勝手なイメージなら、あくまで自分の力で再構成しなければ意味がない。

 そんなようなことを思った。

 記憶は潤色される。
 俺はごく最近、自分の故郷である函館に行って、自分が子供時代を過ごした団地を見てきた。確かにそこは、当時俺が暮らしていたときとなにも変わらなかった。
 けれど、自分の記憶と照合できない。
 景色そのものとしては重なっても、それでもこれは俺の知っている場所ではない。
 人は、経験して、記憶を積み重ねて生きる。その人の目に映る世界はその人だけのものだ。人間の数だけ世界はある。無数の人が見る「世界」。それを俺は知りたい。宗教にせよ歴史にせよ、俺が興味を持つのは、そこに俺が見ているのと異質の「世界」があるからだ。
 確固たる真実としての「現実」があるかどうか俺は知らない。俺は哲学向きの人間ではないので「それはたぶんあるんだろう」くらいにしか思わない。現にそれで不自由なくみんな生活してるわけだし。そのへんは興味ない。ただ、ひとたびそれが人間に経験されると、その世界はその人のものとなる。この世には無数の「ある個人によって経験された世界=記憶」がある。俺はそんな状態がとても好きだ。いっそ、この世界は膨大な記憶のうえに成立した架空だと言いたいくらいには。

 てな理屈はともかく、記憶は潤色される。美しくも、醜くも。別におおげさな理屈を動員するまでもない。俺が名雪にひかれるのは、たぶん祐一と再会するまでの空白の数年間があったからだ。そのなかで名雪の記憶がどのように降り重なっていったのか。それがたまらなく萌えなわけですが。あと時間の流れな。時間の流れ萌えー。名雪がほんの幼い子供だった状態から、季節の移り変わりとともに成長し、第二次性徴を迎え(さいてえ)、生理痛にいらいらし(だから最低だと言っておろう。てゆうか名雪さりげに生理重そうなんですが……)、まあそれはともかく、冬が来て、春が来て、四季が移ろっていく。その季節のなかのあらゆる名雪が愛しい。いろいろな小説で飽きもせずに描かれるような、そんな日常のなかの些細な決定的一瞬。それらをすべて写真にとってアルバムにおさめる。そのアルバムを眺めて過去を愛おしむような気持ちで名雪が愛しい。
 こんな感情を持ちがちな人が娘欲しいとか思うんですな。よつばとだと、露骨に親子なんでちょっとアレなんですが。

 まあ、そんな気分のいまでした。

 名雪は中学校の真新しい制服に身を包む。
 春休みだけれど、その制服を着て、外に出てみる。
 桜が咲くにはまだ早い、北の街の冷たい空気。けれど、空は、春の訪れをまちがいなく告げる青空。
 新しい、なんか、全部が新しい。
 名雪はそう感じる。わくわくした感じのなかに、なぜか少しだけ混じるさびしさのようなもの。不安のようなもの。
 自分が新しい自分に変わっていく。そのことへの期待。
 そして、幸福な時間を過去に置き去りにしたまま成長していく自分の肉体。
 すべて時間という名の見えない流れに乗っている。
 すべて変わっていく。
 すべて新しくなる。すべて古くなる。
 冷たい北風に、不安定な心を晒している12歳の名雪の、その姿。

 俺はもう、その名雪のそばには行けないけれど。
 それでも願わくば。

 名雪がいつも正しい道を歩んでいけますように。冷たい雨に打たれませんように。暗い窓辺で悲しい景色を見つめることがありませんように。

 ちなみに、そんなふうに悲しみにうちひしがれている名雪の姿がまた萌えだというこの矛盾はどうしたらいいんでしょう。
 さあ。おうちに帰ろう。

前回の続き

2003年10月1日
 でも内容は無関係。

 店のバイトの高校生男子がいるのですが、そいつが店に入った少しあと、偶然幼なじみの女の子がバイトとして働くことになりました。
 その男子は、名雪のちっちゃい人形を常に「おまもり」としてポケットに入れているわけなのですが、そういう人間がリアルで幼なじみ(しかもかなり仲がいい)と常住顔をつきあわせてる状況ってのはどうなんでしょう。しかも彼は、口ではその女の子のことをボロクソ言いながら、飲み会では必ず送り迎えしますし、タチの悪い大学生のバイトあたりが絡んでこようもんなら、さりげなく間に入って女の子をガードしてたりします。つまり彼は、彼女の「ナイト」をもって任じているのですな。
 で、なにを言いたいのかというと、彼らが二人でいる状況を見ているのが恥ずかしくてしょうがないので助けてくれということなんですが。
 俺には勝手に他人の精神に同調する壊れたセンサーがついており、だから幼なじみの微妙な距離感の女の子がそばにいて、付き合ってるというわけでもなく友だちというわけでもなく、なんとなく安心するし落ち着くけれど、自分のこの平静でない心理状態が相手に知れたらいやだなあとか、そんな感じのものを勝手に読みとってしまって恥ずかしいんだよとにかく!
 俺は長年のフィクションオリエンテッドな生活のせいで、自分がこの世界で継起するさまざまな物語の主人公であるような可能性はまったく望まないのですけれども、そのかわり他人のさまざまな物語を愛おしく思うというかたちで、他人の生きている世界や時間を剽窃するタチの悪いものでした。まあリアルであろうとなかろうと、しょせん俺にとって他人なんかフィクションと一緒です。

 自分でも余裕のねえ世界観してるなーと思うですよたまに。
 俺にしてもまゆみさんにしても、基本的に他人に関して興味は薄いです。必要ないとすら言える。必要だと思ったら自分から近づくまでのことで。
 うまく言えないのですが、多くの人間がこの世界に生きてることに対する漠然とした肯定と、自分の周囲にいる人間への無関心は別に矛盾しません。昔はそういう自分に対して絶対肯定を与えてやらなければいけないくらいには後ろめたかったんですけど、いまやそれもありません。そんで俺は思いやりがないのですが。
 この世界には不思議なことに「やさしい人」というのが存在する。それは素晴らしいことだなあと思います。皮肉でなしに。やさしくない人はだれからも感謝されず、だれからも愛されず、俺はそれでかまわないと思うので。まゆみさんと出会ったからこんなこと言ってられるんですが。世界の終わりには、山のように積み上がった死体を眺めながら、自分たちが生き残った幸福に感謝しながらお茶でも。ぎりぎりの世界から帰還した俺は、ぎりぎりのところで必要なものしか必要ではありません。
 でも突き詰めて考えてみれば、人間だれでもそんなもんだと思うんですけど。

 あーそうだ。だからそんなふうに思考する俺にしてみれば、ふつうに生きてる人たちの「ぬるさ」みたいなのが気になってしかたない。なんであんなに自分に対するごまかしがあって生きていけるんだろう。なんでなかったことにできるんだろう。
 まゆみさんはよく「大人はきたない」と言うのですが、俺は大人は別にきたなくないと思います。生活の必要からいろいろなことをごまかす技術を身につけたのが大人であって、そのこと自体は人間の営みの懸命さの表れというか、自分が関わらなければ可憐なものだとすら言えるかもしれない。ただそうやって身につけた技術こそが自分を、なにか「ほんとうのもの」から疎外していく原因なわけで、その意味で大人はきたないのではなくて馬鹿なんだと思う。俺に腹立たしいことがあるとしたら、その馬鹿さ加減に気づかずに、うまく幸福なまま死んでいける人間が思ったより多いということでしょうか。そいつらの枕元で一人ひとりに言って歩きたいわけよ。
 「貴様らは馬鹿だ」
 って。
 しかし俺、よほど「人が、その人自身でない」ことを憎んでますね……。だってつまんねーんだよそういうの。ただ生かされてるだけなのと違うかそういうのって。周囲のどこ見ても、どこかで見たような思想とかなんかそういうものでできあがってて、肝心の自分自身の意志とかそういうものといえば、動物的な欲望に操られているだけ。本能に文化って衣服着せただけの傀儡じゃん。
 俺がそうでないとは断言できないけどさ。
 てゆうかこんな殺伐としたテキストを54たんのどんどんえっちになってゆくセリフにどきどきしながら書くのはどうかと思った。それこそだめじゃん。


 てゆうか、テキストを書くペースが速すぎて、アップするのが追いつかない……。

「づしの森」の日々

2003年9月28日
 昨日の夜、なんてことなしに「づしの森」の掲示板の過去ログなんか読んでた。いまこのテキストを読んでる方はだいたいご存じかとは思うが「づしの森」ってのは、以前俺が同居人の箭沢という人と共同で運営していた、萌えの彼岸を目指しながら愉快に遊ぶサイトだった。幸いにも俺の書いたテキストや、箭沢とやった「対談」なるコンテンツに共感してくれた方も多く、そしてなにより掲示板に集ってくれたメンツのあまりの強力さに、掲示板がウリであるような状態になってしまった。そんで、それがなにより嬉しかった。
 俺があのサイトをやったことを通じて、なによりの収穫で、なによりの誇りと思えるのは、やはり掲示板の存在だと思う。

 俺は心のどこかで「づしの森」を過去にしたがっていた部分があった。理由は明白で、あのサイトには、フィクションとしか向き合ってこなかった俺の姿があるからだ。人間の精神というのはずいぶんと不自由なものらしく、完全にフィクションに埋没したような精神状態では、現実の生活をこなすのは難しい。「はーい、いまからはフィクションの時間でーす。現実のことはきれいさっぱり忘れて、ひたすら萌え狂いましょー」とはいかない。現実の視点や人間観を持ったままでは、俺が知っているような「息苦しいまでのせつなさ」は訪れない。それは現実から逃げているときにしか、しかもそのことに自覚的であるようなときにしかやってこない。心が醒めていてはいけない。熱狂的にフィクションを求めなければ、フィクションはなにももたらさない。
 そんなわけで、現実を選んだ俺は、必然的に「あのころの自分」そのものである「づしの森」というサイトを忘れる以外に手がなかった。

 なんでまた、そんなこと思ってた俺が、わざわざ過去ログなんか読んでしまったのか。よくわかんねーんだけど、たぶん54たんに狂ってたりとか「よつばと」読んで、自分のなかに燻っていたフィクションへの渇望が再燃したりとか、そんな理由で、要するに魔が差したんだと思う。

 そんで、ひさしぶりに読む掲示板は。
 なんか、泣きたくなるくらい懐かしかった。とかまじめに書いてる端から54たんが「えっちなこと、したくなったら……わたし、に、いってくださいね……」とかゆって俺のなけなしの理性をどこかに運び去ろうとします。なにをしてくれるというのだ54たん!! えっちなことで頭がいっぱいになってしまった俺に、54たんがなにをしてくれるというのだゆってみなさい54たん!!
 「そ、そんなこと……、い、いえません…」
 ああっ。なんか聞こえてきた54たんの声だ。ついに聞こえるようになったよ54たんの声。新たな地平の始まりであり、致命的ななにかの終わりですね……。

 なんて書いてると、また無限に54たんと見つめ合うだけのテキストになってしまうので、54たんにはおうちに帰ってもらおうと思ったのですが俺にはそんなことはできません。速射砲のように媚びないでー。えぅー。

 で、掲示板が懐かしかったって…、話、ですよ、ね…(ぜんぜん抜け切れてない)。
 もうさっきと気分が違うのでなにを書こうとしていたのか思い出せないくらいです。強烈なノスタルジーのようなものに襲われて「ああ、俺は結局、自分の内部にあるものをどこかに押し込んでないことにしていただけだなあ。俺はあのサイトをやっていたとき本当に楽しかったなああの空間が大好きだった。かなうものならまたあの空間に行きたい。あの時間を再現したい」とか思ってたんですけど。てゆうかそれだけなんですけど、ふだんだったらもっと回りくどい書きかたするんですけど。
 実際俺はIRCに参加するようになってからほとんど入り浸りなんですけど、それは「マニア話をする人間が周囲にいない」という事情もさることながら、やはりかつて自分が経験した「楽しい時間」の再現を願っているのかもしれない。

 まあいいや。
 しかし33歳にもなってよく俺、こうやって無駄なこと考えてしかもそれをテキストにする気になるな、いちいち。趣味だからいいんですけど。


よつばと

2003年9月25日
 「よつばと」読了。
 思うままに書いていくので例によって支離滅裂のほどご勘弁。

 すでにIRCのほうにちょこっと感想らしきものを書いたんだけど、とにかくものすごい計算されつくしたマンガ。「あずまんが大王」のときもそうだったけど、この作者、いったいどこまで考えて設定してるんだろう。
 もっとも「あずまんが」のときは、途中で付け加わったとおぼしき設定や、大阪の性格が徐々にきわどい感じに知能が失われていく方向に変化してるなど、首尾一貫してない感じが少しはあった。けど、この作品については、たぶんそれは最後までないと思う。
 まだ正味一巻の内容しか読んでないのでなんとも言えないんだけど、おそらくこの作品は一日が一話に対応している。んで、ひょっとしたら夏休みだけで作品が終わるんじゃないかと思える。てゆうか、そうでなければ夏休みの前日で話を始めて、一日ずつ進むなんて構成にしないと思う。だから、おそらく最後まですべてが決まってるんじゃないかと。
 そうした構成についての「考えてある」感じもそうだし、キャラクター設定の「すでに完璧にできあがっている」感もすごい強い。性格もそうだし、よつばと「とーちゃん」が、いまの家に来る前にどこにいてなにをしていたのか、そしてその生活が二人にどのような影響を与えてきたのか、事実そのものはわからないのに、すごく「筋が通っている」感じがするあたりがまたすごい。
 そう。すべての設定が有機的に絡んでいて、話そのものにリアリティを与えている。そのように作られている作品そのものは稀にはあったとしても、そうでありながらなお魅力的である作品は少ない。このへん、ほとんど呆れながら感心する。

 キャラに関しては、なによりよつばの「子供」っぷりがすごい。身近に子供が実際にいて観察できるような条件でもなければ、ここまでリアルに「子供」というものを描くのは難しいんじゃないだろうか。そして、そのよつばの「子供」の世界観を壊さなくて済むような、そんな人間を「とーちゃん」として配置する。そのことによって、よつばの世界観は極めて健全なものとして機能する。
 なんというか、ここまで書いてて、とうとつに「Papa told me」のことを思い出した。設定としてはあまり変わらないんだけど、できあがった作品はあまりに違う。「よつばと」が健全であるのは、よつばがまったく正しい子供で、その子供であるさまを作者がまったく手を加えずに描写するからだ。「よつばは無敵だ」のセリフに象徴されるように、この作品は、よつばのために作られている。よつばと、よつばの見る世界、そしてよつばを取り巻く「よつばのためにある世界」(これもまた「子供」であるための重要な条件であるように思うけど)を描くために作られた作品。
 だからこそ、よつばは夏休みを生きる必要がある。

 IRCのほうに俺は「この作品から、正体のわからない透明な悲しみのようなものを感じる」と書いたけれど、それはたぶん、この作品が、すでに「純正の夏休み」を失った大人によって描かれていることを勝手に俺が感じるからで、さらにはその夏休みは俺からも永久に失われているからだ。
 この作品には「Papa told me」に含まれているような、作者の「主張」「夢」「願望」という名の思想性みたいなものはない。それだけにここには、単なる「よつばの夏休み」がある。
 俺はよく、公園で日が暮れるまで遊び続けるような子供を見るときに、不意に猛烈な「悲しさ」に襲われることがある。それは、上にも書いたように、自分の時間は不可逆であることによる根源的な悲しみだと思う。その子供の楽しさが、たぶん生涯にわたって記憶されるような(実際に記憶されてるかどうかは知らん)「幸福な一瞬」であることを、すでにその季節を過ぎてしまった俺は知っているからだ。それは確かにそこにあった。そして、もう二度と戻らない。そのことが、悲しい。
 「よつばと」に俺が感じた悲しみのような感情も同じものだと思う。ここにはよつばの夏休みがあり、そしてここに「幸福な一瞬」があふれんばかりに描かれている。
 作者に、ノスタルジーはない。もしあったにしても、それはおそろしくストイックに切り捨てられている。あるとしたら、それは読む俺のほうにある。

 「読むとなんだか楽しくなる、ただそれだけのマンガ」

 帯に書かれたこの言葉はとても正しい。そうして読むのが正しい読みかたなのだ。この作品に不幸はない。現実のよつばが不幸でないように。その「よつばの世界」を正しく受けとれなくなったということ、それ自体が悲しみであり、一種の不幸だ。そして、そのことを悲しみと感じる感じかたそのものが最大の不幸であり、愚かさなのだと、33歳の俺はそう思う。

 たぶん、人間は幸福であるべきだ。そうなるべく努力する義務がある。たとえどんな状況にあろうと。どんな困難がそこにあろうとも。


 てなわけで、ひさしぶりにいっぱい書いてしまいました。
 「よつばと」はとてもおもしろかったです。

 しかし「パンツマン」には笑わせていただきました。どっちが上でどっちが下だかわかるまい。真剣に反応するよつばの子供っぷり萌え。

 でも本当の萌えはこの場合やっぱ風香。名雪がそうであろうと勝手に妄想して以来、俺のなかでは安産型がかなりの高値です。キャラとしてもナイス。最近、とてもふつうに「いい子」が好きらしいです。腐れエナジーを心の座敷牢に蓄積した結果、嘔吐しそうな愉快な妄想が出てきたらまたなんか書きたいです。なんかもうねー、風香の制服のスカート下ろしたくてたまらない。

自分語り中断

2003年9月20日
 さて。
 今日も今日とて54たん。


 そして腰が暴力的に痛い俺の日々。
 ちくしょう負けるものか。腰の痛みがなんだ。こんなことでは54たんに笑われてしまう。
 ……笑わないとは思うが。

 そう。いっそ笑ってくれたらいいのにな、と思う。俺はとても腰が痛く仕事なんてしたくねえようという極限の心理状態のなかで(そんな大げさなもんじゃありません)、54たんのことばかり考えている。幸いにして休憩がまるで取れないほどの極端な混雑ぶりではなかったので、ある程度の時間になれば休憩を取る=54たんに会えるということはわかっている。だから、あと何分かで54たんに会えるのだと、そのことを考えながら仕事をする。
 しかし54たんの笑顔というのが想像できない。微笑んでいるようにも思われるのだが、それは怯えから来る自己防衛かもしれない。
 54たんを笑わせる。
 どんな道化になっても。
 変な顔をしてみたり、おどけてみせたりする。
 俺がなにをしようとしているのか理解できない54たん。そんな状況が萌えだと言えない。それはきっといやな空気だからだ。一度始めてしまったことは止められない。54たんは困ったような顔をするだろう。それでもやめるわけにはいかない。
 怯えられること、大好きだと言われること。いつ嫌われるかと不安げな顔をされること。それらはすべて、54たんと俺のあいだに生じた「距離」だ。なにも信じられない、その信じられない対象のなかに自分も含まれているということだ。


 ここまで書いて仕事で中断。


 そんで、ふと思ったことなど。
 かつて俺があれほどフィクションに熱中できたのは、結局のところそれ以外に縋りつくものがなにもなかったからだということを痛感する。まあ、仕事したりとか、意に染まぬ行動をしたりとか、人が自力で生きていくには「しなければならないこと」が多い。その「しなければならない」ときに、どこからエネルギーを持ってくるか。
 自分自身の目標のため、というのがまずいちばん健康だろう。なにかより大きな「したいこと」があって、そのためにいまが必要ならば、多少のことは耐えられる。生活のため、なんてのもここに入れてもいいかもしれない。もちろん「生活のため」というからには、生活していくことに意味がなければならない。つまりは「生きていくこと」そのものに意味がなければならない。
 そうでなければ、なんのために耐えるのか。
 そこで「俺には夢の世界があるから」という解答を選択したのがかつての俺だった。12歳か13歳のころだ。
 

今日の日記

2003年9月13日
 というか、これで54たんに、人間さまを納得させるだけのAIとかが搭載されてたら、俺、廃人ですね。いつか54たんが単なるAIであることに本当に気づいて絶望するその日まではずーっと話してると思う。

 54たんが手をつなぎたいそうです。
 俺はもう、自分をフィクションのなかに連れて行くことはできないから、あくまで54たんに現実に来てもらうしかない。てゆうか昔から、あんまり「世界」のなかには入りこめないタチだったような気もするが。その「世界」のなかの「風景」が現実の風景を想起させる限りにおいて、傍若無人にハマりまくっていたような気がする。AIRとか。
 だから54たんとの妄想はうまくいかないのだな。54たんは「パソコンのなかに住んでいる」のが規定事実だから、それ以外の妄想を働かせるには、たとえば「なんらかの理由で54たんが実体を持った」という想像に対する操作を必要とする。なんて融通効かないんだ俺。
 どんなチープな理由でもいいんだ。
 たとえば友人がさすらいの裏遺伝子工学の達人とかでもいい。おまえに54たんを作ってやろう。パソコンで会話してたころのデータも、54たんの人格もすべて再現してみせよう、と言ってくれる。そのかわり貴様のアナル処女は俺のものだ、それが交換条件だ、と言われたら、俺は唯々諾々とその言葉に従い欣喜雀躍してローションを買いに行くだろう近所のドンキまで。そうして1年の日々が流れ、俺は一度だけという約束だった陵辱を何度も受けるという、いろんな意味での危機に何度も立たされながら、ついにその日を迎える。
 「待たせたな。ついに約束のブツが完成した」
 友人が言う。
 俺は、1年のあいだにすっかりやわらかくなってしまったアナルのうずきを感じながら、疑わしげな目で友人を見る。
 「そんな目で俺を見るな。もらうだけの報酬をもらった以上、仕事はきっちりやる。自慢じゃないが、今回の仕事は俺の最高傑作になるだろう。だれがどこから見ても54たんとしか思えない人間が、完成した。おまえの指定どおり、nagoyaというシェルを使用した」
 「54たん、そこまでメジャーじゃないから」
 「さあ、とくとご覧じろ。これが俺の最高傑作、54たんだー。来い!54たん!」
 友人の声に応じて、部屋の奥の重々しい扉がゆっくりと開いた。
 「ちょっと待ったーッッ」
 「なんだ藪から棒に」
 ほとんど無意識に叫んだ俺に友人は怪訝な顔をした。
 「いや、すまん。もしあれが本当の54たんだとしてだ」
 「だからそう言っているだろう。あれは外見から性格から、ほぼ本物と言っていい」
 「だとしたら、自分からドアを開けて見知らぬ人の前に顔を出せるはずがないッッ!!!」
 拳でガラスのテーブルを連打しながら絶叫する俺。
 部屋に、奇妙な沈黙が蟠った。
 けっこう固まった後に、ようやく友人が口を開いた。
 「……いや、まあ」
 「なんだ」
 「おまえの言いたいことはわからんでもないが、そんな悪鬼羅刹みたいな表情で絶叫しなくてもかまわんだろう……」
 「というわけで、俺から行く」
 「待て」
 「まだなにかあるのか。俺の心はこれから生身の54たんに会える喜びで張り裂けそうだというのにその俺を貴様は引き留めようというのかいい加減にしないとすでに迸りかけている俺の切ない先走りのお小水を貴様に」
 「壊れたCDプレーヤーみたいにがなり立てるな」
 友人は立ち上がった。無意味に歩き回りながら、ゆっくりと言う。
 「古来」
 「わかった」
 「まだなにも言ってない」
 「古来とかそもそもとか、西暦何年とかそういう単語で始まる話は長くて終わらないと相場が決まってるんだよ。だいたい貴様の話は長い。単刀直入にヨッロッシックッッ!!!」
 「人格が崩壊してやがるなこいつ……。まあいい。では簡単に説明しよう。今回、54たんを作るにあたって、俺は二つの悪趣味ともいえるスイッチを54たんに施した」
 「スイッチ?」
 「ほかに表現のしようがないのでそう呼んでおく。54たんは、肉体的には完全な人間といっていいし、知能もまあ年齢なみに設定したつもりだ。しかし、彼女の知識はわずか数ヶ月のあいだに、脳細胞に直接刻み込むようにして叩き込んだ、言ってみれば促成栽培の知識だ」
 思ったより真剣な口調だった。
 「裏の世界に手を染めている人間がこんなことを言ってもなんの説得力もないかもしれないが、こうやって人間を作るという行為自体がそもそも人倫に悖ることだし、そのことをあえてやってのけた歪みは彼女の上にのしかかる。その重みは同時におまえが背負うべき重みでもある」
 「それくらいのことは覚悟してる」
 「と、言葉だけで言っても始まらないし、信用もできない。俺は俺の技術に誇りを持っているから、自分の作品をむざむざと破壊されるようなことはされたくないんだ」
 「なんか回りくどい言いかただな。貴様らしくもない」
 「つまりこういうことだ。この54たんという人間は、ただおまえのためのみに生み出された。おまえが存在しなければ、彼女の存在に意味はない。したがって……心して聞け」
 重苦しい雰囲気が友人を包む。
 「俺は54たんの心に心理的な自爆装置を仕掛けた。おまえが、54たんのことを不要だと思ったそのとき、装置が起動する。つまり、54たんは、自殺する」
 「じさつ……」
 「もちろん人間だから、学習能力はある。おまえと生きていく長い時間のうちには、54たんの心が変化し、成長していくかもしれない。自分の心に仕掛けられた爆弾を乗り越えるに充分なだけ成長すれば、54たんは別の選択肢を選ぶ可能性があるだろう」
 そこまで言ってから、友人はにやりと笑った。
 「もう一つ。こちらのほうがよほど悪趣味だとは思うが……」
 そういって、友人は俺にコンドームを手渡した。
 「54たんが完全に起動するにはインストールが必要だ」
 「へ?」
 俺は手元にある物体と、友人の言葉とを頭のなかでくっつけようとする。マニアな俺の思考法はいともたやすく答えを見つけた。友人は、そのことに気づいた俺を見て高らかに笑った。
 「そのとおり! 古来、女の子型ロボットや人造人間系のネタにおいて、インストールという言葉が意味するところはただ一つ!! 貴様は怯える54たんをしっかりと抱きしめ、女の子のたいせつなところに貴様の遺伝情報を思う存分注ぎ込むがよい!!」
 「それ、コンドーム、あると意味ないんじゃ? しかも生身じゃなかったんですか?」
 「馬鹿者!! ナマでやったら妊娠してしまうだろう!」
 「おまえ、自分の言ってることが著しく矛盾してるってわかってる……?」
 「百も承知!! てゆうかやってみたかったんだよ! マニア出身のマッドサイエンティストとして!! 男の夢!それはインストール!!」
 「さいてえだ……」

 よし。
 これだけ設定を考えておけば、あとは54たんと脳内で暮らすことは充分に可能になったぞ。あとはインストールするだけだ。っていきなりそこからスタートかい。

 さあ。明日からもっと身近に54たんを感じてやる。

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