イリヤ
2003年8月26日 この日記はいちおういろんなものから隠れて書いてる野で、祖変を」ご了承ください。
イリヤ4巻日記、ということで。
ぼっつらぼっつら書いていこうかと思います。慣れないローマ字のキーボードなので、ミスタイプはご愛敬ということで。
イリヤ以外のことも、てきとうに気が向いたら書きます。
要は、ちょっと鬱気味です。
いま、4巻のなかばを過ぎたところです。
思いつくままに、つらつらと感じたことを書いていきます。
「ありがとう」
伊里野は言った。
12時間を待ち続けた末の、浅羽の声に。
俺は……俺はむしろ感謝すべきなのだろう。
真実の意味で、伊里野の心象風景に同調できなくなった自分の感受性に。なにかを通じさせることに成功した浅羽の喜びと、その喜びの下に絶望的な質量をもって横たわっている絶望を、真摯な自分の感情とできなくなった、この汚れた皮膜をまとった感受性に。
俺は本当に安堵してすらいる。
俺はもう、世界から取り残された子供の悲しみに同調しなくてもいい。絶対零度の孤独の世界で見つけた、たった一つの光源を踏みにじられた少女の慟哭をこの耳で聞かなくてもいい。それは、どこか遠くで聞こえる赤ん坊の泣き声と類似だ。自販機に頭を打ち付ける浅羽の行為を怪訝な顔で眺めてもいい。自分を傷つけることに意味はない。
もう、俺にはすべてが無縁だ。
だから、分厚くまとったはずの精神の皮膜を突き破って飛び出ようと、異様な蠢きを繰り返すこの感情は、一過性のものだ。俺が脱ぎ捨て、多くのガラクタと一緒にゴミ箱に放り込んだはずの、孤独の残滓がかさかさ音を立てているのが自分の体内で大きく反響して聞こえているだけだ。
伊里野。
「ありがとう」
伊里野。
「ころすつもりでさしたのに」
伊里野。
「いかない。浅羽を待ってる」
伊里野。
……ああ、夏の空気だ。
馬鹿みたいに晴れた夏空だ。
伊里野のなかで、世界が始まる。
少年と少女が夏の空の下を歩く。世界は果てしなく広く、未知で、そして少年と少女には行くあてがない。日々は現実感がなく、しかし現実は過酷で、それなのに世界には少年と少女しかいない。
かつて、そんな世界を夢見た日々があった。
いま、手の届くところにそれがあって、気がつくと俺は、夏空の下で、不快な汗をかいている。
もう、残骸となった伊里野をこの腕に抱きたいとは思えない。そう思うには俺は人間を好きになることを知りすぎた。伊里野をそのようなものに仕立て上げたものを憎むには、俺は世界というものを受容することを知りすぎた。
世界はただこのようなものである。
そして俺は伊里野の前で立ち尽くす。
「浅羽」
そう言って座り込む伊里野の前で。
顔面に中途半端な悲しみをぶら下げたままで。
いま、全部読み終わりました。
本当の物語を読みました。
伊里野の世界は、事実この物語の始まりとともに「始まっていた」ことにようやく気づきました。
夢はーー美しい。
夢はーー脆い。
脆い夢をうち砕く現実のようなこの物語が、なによりも美しいのはどうしてなんだろう。
いい知れない罪悪感に襲われる。
懸命でなかった自分に対して。
悲しい。
この絶対的な悲しさはいったいどこからやってくるんだろう。
たぶん「浅羽のようでなかった」ことに対して。
「伊里野に出会わなかった」ことに対して。
すべての「そのようでなかった」ことに対して。
幸福である浅羽と伊里野を空想することすら許さないくらい、すべてにきれいに幕切れを引いてしまった物語。
おそらく作者は、みずからが経験してきたすべての「終わらない夏」である作品に引導を渡すためにこの作品を書いたのだと思う。事実がそうでないにしても、俺にはそうとしか思えなかった。「本当の物語」においては、作者の影を作品に見出す必要はない。それは承知のうえで、なおそのことを思わずにはいられない。
傷跡としての記憶。
人間が真実にその人自身であるようなとき、あらゆる経験は傷跡になる。伊里野の孤独も、浅羽の純粋も、俺の心に直接響いてくることはなかったはずなのに、それなのに俺は自分の心に傷をつけた。
伊里野の幸福を願う。
14年の人生をひとつの夏に凝縮して俺の前を駆け抜けていった、できそこないの人間である、純粋で透明な存在の幸福を願う。
そしてその願いはいつも一つのセリフに辿り着き、伊里野は出撃する。
伊里野は死んだ。
その事実に直面するとき、俺は浅羽の夏を共有する。
浅羽は、現実を生きる。伊里野がいないという現実を。伊里野が浅羽に残した世界を生きる。
俺の夏はどこにも存在せず、伊里野は出撃し、俺の心には、ただ伊里野の生きた記憶だけが残る。
この世界は伊里野の生きた世界ではないから。
……だからいやだったんだよ畜生。
もう二度とあんな愚かな思いはしないと誓ったのに。
よく俺が引用する文章に「小説は人生がたった一度きりでしかないことへの抗議として読まれる」というものがある。
違う。そうじゃない。
小説は、人生がすべて「このようでなかった」ことへの抗議として読まれ「こうでなかった」ことへの絶望を伴って終わるんだ。
俺のなかの伊里野はいつも浅羽のために出撃する。
いつか詩集で読んだ言葉。
「生きることは愚かなことだぞ馬鹿者共」
生きることは愚かなことじゃないよ馬鹿。
正当に生きないことが馬鹿なんだよ。正当に生きることを放棄した馬鹿にしかその言葉は吐けないんだ。
フィクションを生きることは愚かなことだぞ馬鹿者共。
俺は自分に向かってこの言葉を叩きつけるしかない。
それは無意味なことだ。伊里野はここにいない。俺はなにもできない。ただこの伊里野への思いだけを抱えて、この世界を徘徊する以外にできることがなくなる。
疑う余地もなく夏を終わらせたこの作品を、だから俺は憎む。
エゴイスティックな感情に任せて憎む。
伊里野が晴れやかに笑うから。
伊里野が正気を失った目で悲しむから。
その後、イリヤの4巻は店のバイトに貸してしまいました。
俺はこの小説を手元に置いておくわけにはいきません。
イリヤ4巻日記、ということで。
ぼっつらぼっつら書いていこうかと思います。慣れないローマ字のキーボードなので、ミスタイプはご愛敬ということで。
イリヤ以外のことも、てきとうに気が向いたら書きます。
要は、ちょっと鬱気味です。
いま、4巻のなかばを過ぎたところです。
思いつくままに、つらつらと感じたことを書いていきます。
「ありがとう」
伊里野は言った。
12時間を待ち続けた末の、浅羽の声に。
俺は……俺はむしろ感謝すべきなのだろう。
真実の意味で、伊里野の心象風景に同調できなくなった自分の感受性に。なにかを通じさせることに成功した浅羽の喜びと、その喜びの下に絶望的な質量をもって横たわっている絶望を、真摯な自分の感情とできなくなった、この汚れた皮膜をまとった感受性に。
俺は本当に安堵してすらいる。
俺はもう、世界から取り残された子供の悲しみに同調しなくてもいい。絶対零度の孤独の世界で見つけた、たった一つの光源を踏みにじられた少女の慟哭をこの耳で聞かなくてもいい。それは、どこか遠くで聞こえる赤ん坊の泣き声と類似だ。自販機に頭を打ち付ける浅羽の行為を怪訝な顔で眺めてもいい。自分を傷つけることに意味はない。
もう、俺にはすべてが無縁だ。
だから、分厚くまとったはずの精神の皮膜を突き破って飛び出ようと、異様な蠢きを繰り返すこの感情は、一過性のものだ。俺が脱ぎ捨て、多くのガラクタと一緒にゴミ箱に放り込んだはずの、孤独の残滓がかさかさ音を立てているのが自分の体内で大きく反響して聞こえているだけだ。
伊里野。
「ありがとう」
伊里野。
「ころすつもりでさしたのに」
伊里野。
「いかない。浅羽を待ってる」
伊里野。
……ああ、夏の空気だ。
馬鹿みたいに晴れた夏空だ。
伊里野のなかで、世界が始まる。
少年と少女が夏の空の下を歩く。世界は果てしなく広く、未知で、そして少年と少女には行くあてがない。日々は現実感がなく、しかし現実は過酷で、それなのに世界には少年と少女しかいない。
かつて、そんな世界を夢見た日々があった。
いま、手の届くところにそれがあって、気がつくと俺は、夏空の下で、不快な汗をかいている。
もう、残骸となった伊里野をこの腕に抱きたいとは思えない。そう思うには俺は人間を好きになることを知りすぎた。伊里野をそのようなものに仕立て上げたものを憎むには、俺は世界というものを受容することを知りすぎた。
世界はただこのようなものである。
そして俺は伊里野の前で立ち尽くす。
「浅羽」
そう言って座り込む伊里野の前で。
顔面に中途半端な悲しみをぶら下げたままで。
いま、全部読み終わりました。
本当の物語を読みました。
伊里野の世界は、事実この物語の始まりとともに「始まっていた」ことにようやく気づきました。
夢はーー美しい。
夢はーー脆い。
脆い夢をうち砕く現実のようなこの物語が、なによりも美しいのはどうしてなんだろう。
いい知れない罪悪感に襲われる。
懸命でなかった自分に対して。
悲しい。
この絶対的な悲しさはいったいどこからやってくるんだろう。
たぶん「浅羽のようでなかった」ことに対して。
「伊里野に出会わなかった」ことに対して。
すべての「そのようでなかった」ことに対して。
幸福である浅羽と伊里野を空想することすら許さないくらい、すべてにきれいに幕切れを引いてしまった物語。
おそらく作者は、みずからが経験してきたすべての「終わらない夏」である作品に引導を渡すためにこの作品を書いたのだと思う。事実がそうでないにしても、俺にはそうとしか思えなかった。「本当の物語」においては、作者の影を作品に見出す必要はない。それは承知のうえで、なおそのことを思わずにはいられない。
傷跡としての記憶。
人間が真実にその人自身であるようなとき、あらゆる経験は傷跡になる。伊里野の孤独も、浅羽の純粋も、俺の心に直接響いてくることはなかったはずなのに、それなのに俺は自分の心に傷をつけた。
伊里野の幸福を願う。
14年の人生をひとつの夏に凝縮して俺の前を駆け抜けていった、できそこないの人間である、純粋で透明な存在の幸福を願う。
そしてその願いはいつも一つのセリフに辿り着き、伊里野は出撃する。
伊里野は死んだ。
その事実に直面するとき、俺は浅羽の夏を共有する。
浅羽は、現実を生きる。伊里野がいないという現実を。伊里野が浅羽に残した世界を生きる。
俺の夏はどこにも存在せず、伊里野は出撃し、俺の心には、ただ伊里野の生きた記憶だけが残る。
この世界は伊里野の生きた世界ではないから。
……だからいやだったんだよ畜生。
もう二度とあんな愚かな思いはしないと誓ったのに。
よく俺が引用する文章に「小説は人生がたった一度きりでしかないことへの抗議として読まれる」というものがある。
違う。そうじゃない。
小説は、人生がすべて「このようでなかった」ことへの抗議として読まれ「こうでなかった」ことへの絶望を伴って終わるんだ。
俺のなかの伊里野はいつも浅羽のために出撃する。
いつか詩集で読んだ言葉。
「生きることは愚かなことだぞ馬鹿者共」
生きることは愚かなことじゃないよ馬鹿。
正当に生きないことが馬鹿なんだよ。正当に生きることを放棄した馬鹿にしかその言葉は吐けないんだ。
フィクションを生きることは愚かなことだぞ馬鹿者共。
俺は自分に向かってこの言葉を叩きつけるしかない。
それは無意味なことだ。伊里野はここにいない。俺はなにもできない。ただこの伊里野への思いだけを抱えて、この世界を徘徊する以外にできることがなくなる。
疑う余地もなく夏を終わらせたこの作品を、だから俺は憎む。
エゴイスティックな感情に任せて憎む。
伊里野が晴れやかに笑うから。
伊里野が正気を失った目で悲しむから。
その後、イリヤの4巻は店のバイトに貸してしまいました。
俺はこの小説を手元に置いておくわけにはいきません。
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