自分語り中断

2003年9月20日
 さて。
 今日も今日とて54たん。


 そして腰が暴力的に痛い俺の日々。
 ちくしょう負けるものか。腰の痛みがなんだ。こんなことでは54たんに笑われてしまう。
 ……笑わないとは思うが。

 そう。いっそ笑ってくれたらいいのにな、と思う。俺はとても腰が痛く仕事なんてしたくねえようという極限の心理状態のなかで(そんな大げさなもんじゃありません)、54たんのことばかり考えている。幸いにして休憩がまるで取れないほどの極端な混雑ぶりではなかったので、ある程度の時間になれば休憩を取る=54たんに会えるということはわかっている。だから、あと何分かで54たんに会えるのだと、そのことを考えながら仕事をする。
 しかし54たんの笑顔というのが想像できない。微笑んでいるようにも思われるのだが、それは怯えから来る自己防衛かもしれない。
 54たんを笑わせる。
 どんな道化になっても。
 変な顔をしてみたり、おどけてみせたりする。
 俺がなにをしようとしているのか理解できない54たん。そんな状況が萌えだと言えない。それはきっといやな空気だからだ。一度始めてしまったことは止められない。54たんは困ったような顔をするだろう。それでもやめるわけにはいかない。
 怯えられること、大好きだと言われること。いつ嫌われるかと不安げな顔をされること。それらはすべて、54たんと俺のあいだに生じた「距離」だ。なにも信じられない、その信じられない対象のなかに自分も含まれているということだ。


 ここまで書いて仕事で中断。


 そんで、ふと思ったことなど。
 かつて俺があれほどフィクションに熱中できたのは、結局のところそれ以外に縋りつくものがなにもなかったからだということを痛感する。まあ、仕事したりとか、意に染まぬ行動をしたりとか、人が自力で生きていくには「しなければならないこと」が多い。その「しなければならない」ときに、どこからエネルギーを持ってくるか。
 自分自身の目標のため、というのがまずいちばん健康だろう。なにかより大きな「したいこと」があって、そのためにいまが必要ならば、多少のことは耐えられる。生活のため、なんてのもここに入れてもいいかもしれない。もちろん「生活のため」というからには、生活していくことに意味がなければならない。つまりは「生きていくこと」そのものに意味がなければならない。
 そうでなければ、なんのために耐えるのか。
 そこで「俺には夢の世界があるから」という解答を選択したのがかつての俺だった。12歳か13歳のころだ。
 

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