さて。
 仕事も終わりかけです。連休最終日というのは、夜になるとヒマなものなのでした。

 いよいよ秋だ。今年も秋がやってきた。
 例年秋はよくないです。神経が過敏になります。精神が、大気のなかのいろんな存在するはずのない微粒子を吸収して、ろくでもない妄想を育みます。それはたぶん、精神の大きな糧だとも思えるのですが、同時にこの正体が知れないようで、しょせん正体の割れている漠然とした悲しみが、なんとはなしに痛いという事実に変わりはありません。
 俺のなかで「少女」というのは、自分の感受性に翻弄されて、不安定になる状態がそのまま好ましい景色を作っているような存在です。それは俺が妄想のなかで勝手に規定した「少女」で、現実ではありません。夢の少女です。そして俺は果たし得なかった夢として、そうした存在になることを、心のどこかで諦めきれないでいます。たぶん、ほかにも果たし得なかった夢というのはたくさんあって、そうした無数の夢のかけらどもが、秋の空気に含まれる成分と腐れ反応を示して、漠然と悲しくなるんだと思います。
 そうした秋の愁いに身も心も浸すことを許されているのが、俺のなかでは「少女」だということです。これ自体が腐れ妄想なので、俺の妄念は秋の枯野や川原のすすきの原を駆けめぐり、いやな感じに自家中毒を起こします。
 でもまあ、その行為自体が俺の感受性にとってしか意味がなく、そのことについて悩むことが現実的にどういう利益をももたらさないことがわかっているので、俺はただ夜の公園にぼんやりと座って、街灯に照らされる草原で月を見上げる観鈴ちんを想像して、皮膚を通じて浸透してくる透明な悲しみをしみじみと味わうくらいの余裕ができました。まあ、結局のところ秋はよくないんですが。それと同じくらい、俺は秋という季節が好きなんですが。

 いまにして思います。
 観鈴ちんや、真琴や、そうしたものは、俺にとって悲しみの依代のようなものだった、と。名雪やみさき先輩はそうではない。どこが違うのかということは、考えるのも物憂いし、てゆうか考えるまでもなく明白だから考える必要もないです。
 観鈴ちんの悲しみは俺の悲しみであり、真琴を失うことは、自分のなかのたいせつなものを失うことと同義でした。ごく控えめにいって、それだけ切実に俺に近いものでした。忌憚なくいえば、俺自身でした。
 俺が観鈴ちんや真琴に見出したもの、それはだれもが必ず保っているけれど、意識することがないようなものです。意識することが不幸であるようなものでもあります。それはまた、だれにも理解されず、理解を求めることはもっとも根源的な甘えであり、にもかかわらず理解されることを永久に求め続ける、御しがたいものでもある。
 そうである以上、それは永遠に消えず、だから俺のなかの観鈴ちんや真琴の姿も永久に消えない。俺の内部にあらゆる瞬間に存在し、この世界のどこにも存在し、そうであるがゆえに永久に消えない。
 悲しい、と俺はいい、世界中のだれもが共感する。
 悲しい、と俺はいい、世界中のだれもがそのことを理解しない。
 悲しい、と俺はいえず、だから俺は悲しい。
 そんなような気分が襲ってくるから、秋は悲しい。


 さて。
 順当にいやな感じで盛り上がってます。
 ほかに書くことなかったかな。
 そうそう。2ちゃんの葉鍵板で繭のキャラスレを見てたんですが、そこに書かれたあらゆる腐れた妄想を見ているうちに、ひょっとしてこのスレにいる人間はみんな俺ではないかと思えてきて困りました。どうして繭を好きな人はあんなだめな妄想ばかり抱くのでしょう。嬉しくてたまりません。
 ただ、それに付随して繭に関する大量の腐れ妄想が発生してくるのだけは困ります。女の子に自我など必要ない!!という年来の確固たるまちがった主張と確信が、もこもこと盛り上がってくるのを抑えられません。最初に繭のシナリオをやったときのことはいまでも忘れられません。なにしろ繭が自立の兆しを見せはじめてから後はほとんど覚えていないというあたり、自分の業の深さをまざまざと見せつけられるようで実に誇らしいです。どこかにはきっと、繭のような存在がまったく自立せずに、愛玩動物として生きていくような心躍るエンディングをもったシナリオが存在するのかもしれません。むしろ存在しろ。
 さすがに職場なので、繭にはトイレで用を足すことを教えずに、お風呂場でぼくの前で必ずするんだよって教えたいとか、牛乳は必ず口移しで飲むこととかそんな気が狂ったような妄想は書けませんが、でも繭には羞恥心とかまったくなくて、俺の前で平然と自分を慰めるような状態でいてほしいし、俺は繭が気持ちよくなる手伝いをしたい。外にはあんまり出ないから、二の腕とか抜けるように白くて、俺はその二の腕をはむはむするのが大好きだとか「おそとにでたいのー」などと言って窓の外をせつなげに見る繭を後ろからぎゅーって抱きしめて「外は怖いことがいっぱいだよ。だから、ずっとおうちのなかで、二人だけで暮らそうね」なんて言ったりしたい。監禁なんてしない。ただ繭は「おうち」という狭い世界しか知らずになにも知らずになにもわからずに薄ぼんやりとした世界観のなかで、濁った瞳をしているのがいいなあ。そして永久に13歳であり続ける。そんな夢。繭は俺の愛玩動物になって、俺のきたない欲望をすべてあるがままに受け入れる道具になる。俺は繭の欲望をかなえるための装置になり、繭が知るたったひとつの世界になり、時間を止め空間を閉鎖し密閉された最小単位の社会を形成し、やがてモラルも法律も男も女もない世界で互いの欲望ひとつを媒介にして溶融する。そんな身勝手で甘美でだれの諒解も共感も得られなくて反吐の出るようなユートピア。

 向こうのほうでバイトが談笑しているのを聞きながら、それでも俺は繭と一緒に暮らすそうした日々の出口のない感じに惑溺したい。33歳、出口なし。
 ……人間、そう変わらないということをいまさらのように思い知る。

 てゆうわけで、なんか楽しい気分になってきたのでこのへんださようなら。また明日。

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