嗚呼、幼なじみ
2003年10月10日 仕事終わった。
さすがに2.5連休もとってしまうと、復帰が億劫でいかん。ところでテレビで「ばせいを浴びせられて」とかさんざん字幕が出てたけど、あの「ばせい」ってひらがなはどうにかならんのか。あれではそもそもが「罵声」という単語を知らない人にとってはまるで意味がわからない記号になってしまう。「唯一」を「ゆいつ」と発音してその由来がわからないのと同じような状態になってしまうと思うのだが、どうでしょう。言語なんぞ変化に任せるしかないもので、どうにもならないのだが、自分が生きてるあいだには、あんまり醜い日本語は見たくないと思うです。
自転車が好きなので、宮尾岳の「アオバ自転車店」なんか読んでみました。えーと、反射的に魔物ハンターなんて単語が浮かぶあたり……。この人のマンガはけっこう好きです。
内容は自転車を小道具に使った「ちょっといい話系」なのですが、これが実にソツがなくてうまい。最近、諸般の事情により熱心にお話なんか書いてるのですが、あれほどの手練れになるまでいったいどれだけの時間がかかることか。あるいはなれねえのか。
老夫婦の夫が死んでしまう話がそのなかに収録されていたのですが、俺、ああいうの弱いです。基本的に人が死ぬ話には弱いんです。共有してきた時間が瞬時にしてブッたぎられることの理不尽さ。その欠落の大きさ。そんなものがダイレクトに襲ってきて、どうにも悲しくてやりきれません。
そう。幸福な時間の積み重ねとその終焉。
俺が、老人が過去を振り返るような、そんな話に無条件に弱いのも、結局「振り返る」という作業そのものがせつなく、かつはその「取り戻せない」時間への哀惜の念というのがどれだけ悲しく、愛おしいものであるかを勝手に感じ取るからでしょう。
俺はまた同時に時間の流れのない楽園、というようなものも大好きです。嘘もなく偽りもなく、それゆえにそこには真実も信頼もない。そこは現実ではなく楽園だから、真実から虚偽へと至る無限のグラデーションのようなものはない。ただ、自分がいて相手がいる。それがすべてだから、愛し合って生きる以外なにもできない。そうした極めて幼児退行のような世界観が大好きなんです。
ただ困ったことに、その世界が心底美しく思えるのだとしたら、それは必ずや「終わり」の予兆を伴っていなければならないんです。俺のなかでは、って話ですが。まあ、理屈で考えても、すべてが満たされている楽園なんて、なにもないのと一緒だから、そこに心の動きや感動みたいなのが発生するはずがないわけで。
続かないとわかっている。いま、この瞬間に奇跡のように存在している、ほとんど二人だけで築いたような楽園。そんなようなものが萌えなんですよ俺は、という話。俺のなかでは、この「楽園」と「過去への憧憬」はよく似たところに位置しており、それはとても悲しく、また美しくて愛おしいものです。
そうだよなあ。死別が悲しいのも、だれかが死んだ瞬間、その人と共有した経験が瞬時にして「記憶」へと強制的に変化させられるその力の理不尽さのせいだもんなー。
そんなようなことを考えてたら、やっぱ名雪のことを結局は考えている俺でした。そんなに愛しいかね。病気ですか一種の。なんてゆうのか、フィクションの世界にはもう入れない、そのことをつくづく思い知らされてから以降、よりいっそうの切々たる思いをもって名雪のことが思いやられます。やっぱ、もう手が届かないからね。かつて持っていて、いまは失ったもの。そうしたものは、愛しい。
さて。
名雪が大好きはわかったのだが、俺は今後、名雪を題材にした以外のものを書けるのでしょうか。マリみてによほど俺好みの感情を見出せれば書けるのかもしれない。白薔薇さまだけかなあ、共感を覚えるのって。乃梨子に対する感情は、はっきりと意図的な誤解を含んだ憧れでしかないし。
観鈴ちんのことは、やっぱまだ心のどこかが、深く関わるのを拒絶してるみたいだしなー。あんま深く抑圧してしまうと、意識のレベルでは「興味を失った」という結論を出したりしてしまいがちなので、注意が必要です。
少なくとも、夏の海風に吹かれて立っている観鈴ちんのことを平静で穏やかな愛しさをもって見れるようになるまでは、無理だろうなあ。
ああ。いかん。また妄想が……。
あんまり鮮やかな妄想は困るんですが。
なんかいまの俺の感情を上手に乗せられるような、そんな情景が思い浮かばずに欲求不満の感じ。
広大な世界のなかで、人々がありのままに生きているような、そんな世界を俺のなかに築きたい。そこには名雪もいて、観鈴ちんもいて、すべて俺が愛してきたような存在がいる。みんなが思うように自分であることが可能で、その限りにおいて、悲しみ、苦しみ、やがては幸福になる。そんな世界を築きたい。
あー。観鈴ちんの幼なじみになりてえ(今日の結論)。
さすがに2.5連休もとってしまうと、復帰が億劫でいかん。ところでテレビで「ばせいを浴びせられて」とかさんざん字幕が出てたけど、あの「ばせい」ってひらがなはどうにかならんのか。あれではそもそもが「罵声」という単語を知らない人にとってはまるで意味がわからない記号になってしまう。「唯一」を「ゆいつ」と発音してその由来がわからないのと同じような状態になってしまうと思うのだが、どうでしょう。言語なんぞ変化に任せるしかないもので、どうにもならないのだが、自分が生きてるあいだには、あんまり醜い日本語は見たくないと思うです。
自転車が好きなので、宮尾岳の「アオバ自転車店」なんか読んでみました。えーと、反射的に魔物ハンターなんて単語が浮かぶあたり……。この人のマンガはけっこう好きです。
内容は自転車を小道具に使った「ちょっといい話系」なのですが、これが実にソツがなくてうまい。最近、諸般の事情により熱心にお話なんか書いてるのですが、あれほどの手練れになるまでいったいどれだけの時間がかかることか。あるいはなれねえのか。
老夫婦の夫が死んでしまう話がそのなかに収録されていたのですが、俺、ああいうの弱いです。基本的に人が死ぬ話には弱いんです。共有してきた時間が瞬時にしてブッたぎられることの理不尽さ。その欠落の大きさ。そんなものがダイレクトに襲ってきて、どうにも悲しくてやりきれません。
そう。幸福な時間の積み重ねとその終焉。
俺が、老人が過去を振り返るような、そんな話に無条件に弱いのも、結局「振り返る」という作業そのものがせつなく、かつはその「取り戻せない」時間への哀惜の念というのがどれだけ悲しく、愛おしいものであるかを勝手に感じ取るからでしょう。
俺はまた同時に時間の流れのない楽園、というようなものも大好きです。嘘もなく偽りもなく、それゆえにそこには真実も信頼もない。そこは現実ではなく楽園だから、真実から虚偽へと至る無限のグラデーションのようなものはない。ただ、自分がいて相手がいる。それがすべてだから、愛し合って生きる以外なにもできない。そうした極めて幼児退行のような世界観が大好きなんです。
ただ困ったことに、その世界が心底美しく思えるのだとしたら、それは必ずや「終わり」の予兆を伴っていなければならないんです。俺のなかでは、って話ですが。まあ、理屈で考えても、すべてが満たされている楽園なんて、なにもないのと一緒だから、そこに心の動きや感動みたいなのが発生するはずがないわけで。
続かないとわかっている。いま、この瞬間に奇跡のように存在している、ほとんど二人だけで築いたような楽園。そんなようなものが萌えなんですよ俺は、という話。俺のなかでは、この「楽園」と「過去への憧憬」はよく似たところに位置しており、それはとても悲しく、また美しくて愛おしいものです。
そうだよなあ。死別が悲しいのも、だれかが死んだ瞬間、その人と共有した経験が瞬時にして「記憶」へと強制的に変化させられるその力の理不尽さのせいだもんなー。
そんなようなことを考えてたら、やっぱ名雪のことを結局は考えている俺でした。そんなに愛しいかね。病気ですか一種の。なんてゆうのか、フィクションの世界にはもう入れない、そのことをつくづく思い知らされてから以降、よりいっそうの切々たる思いをもって名雪のことが思いやられます。やっぱ、もう手が届かないからね。かつて持っていて、いまは失ったもの。そうしたものは、愛しい。
さて。
名雪が大好きはわかったのだが、俺は今後、名雪を題材にした以外のものを書けるのでしょうか。マリみてによほど俺好みの感情を見出せれば書けるのかもしれない。白薔薇さまだけかなあ、共感を覚えるのって。乃梨子に対する感情は、はっきりと意図的な誤解を含んだ憧れでしかないし。
観鈴ちんのことは、やっぱまだ心のどこかが、深く関わるのを拒絶してるみたいだしなー。あんま深く抑圧してしまうと、意識のレベルでは「興味を失った」という結論を出したりしてしまいがちなので、注意が必要です。
少なくとも、夏の海風に吹かれて立っている観鈴ちんのことを平静で穏やかな愛しさをもって見れるようになるまでは、無理だろうなあ。
ああ。いかん。また妄想が……。
あんまり鮮やかな妄想は困るんですが。
なんかいまの俺の感情を上手に乗せられるような、そんな情景が思い浮かばずに欲求不満の感じ。
広大な世界のなかで、人々がありのままに生きているような、そんな世界を俺のなかに築きたい。そこには名雪もいて、観鈴ちんもいて、すべて俺が愛してきたような存在がいる。みんなが思うように自分であることが可能で、その限りにおいて、悲しみ、苦しみ、やがては幸福になる。そんな世界を築きたい。
あー。観鈴ちんの幼なじみになりてえ(今日の結論)。
コメント