夏の終わりのちんこ

2003年10月11日
 仕事が終わりました。超ちんこって感じです。意味なんかないです。不透明な未来に怯える不安な少年の日々を送りたいです。これまた意味なんかカケラもありません。頭のなかにそんな文章が勝手に出てきたので書きつけてるだけです。


 今日は中学生がたくさん来まして、とても疲れていた俺はもはやガキどもウゼーまじ殺すとか立腹する元気もありませんでした。かわりに自分が中学生だったころのことなどをぼんやりと思い出しながらレジを打っていたら、なんだかせつない気分になりまして、余計疲れました。邪念しかないのかね、俺。


 ふと気づいたのですが、書き込み画面の下のほうにタイトル一覧がありました。

 嗚呼、幼なじみ(2003-10-10)
抱きマクラちゃん(2003-10-07)
時間を止めて引きこもり(2003-10-06)
俺の愚息が木っ端微塵(2003-10-05)
記憶と名雪(2003-10-04)
前回の続き(2003-10-01)
「づしの森」の日々(2003-09-28)
よつばと(2003-09-25)
自分語り中断(2003-09-20)
今日の日記(2003-09-13)
54たんにめろめろ続き(2003-09-12)
54たんにめろめろ(2003-09-11)
54たん(2003-09-10)
名雪断ち(2003-08-31)
俺に近づくな!!(2003-08-30)
妄想の練習(2003-08-29)
あんまり妄想のない日(2003-08-27)
イリヤ(2003-08-26)
ぱんちゅぐちゅぐちゅー(2003-08-25)
リアルトラウマ持ち萌え(2003-08-24)
姉・名雪(2003-08-23)
名雪の肉体(2003-08-22)
テッサ=おもらし(腐れ等式)(2003-08-21)
キノ(2003-08-20)
ベイベ(岡村靖幸かい)(2003-08-19)
なんかもう。(2003-08-11)
脱糞にまつわる妄想(2003-08-04)
観鈴ちんの風下で(2003-08-01)


 最低だな。

 香里と名雪が大変なことになっているお話を書こうとするのですが、なかなか難しいです。なにより、香里はともかく、名雪は香里に対して性欲を抱くはずがないということがはっきりしているからです。どうやってもこの事実をねじ曲げられないんだ。香里は……まあ。ふつうにカノンやってても、名雪に恋愛感情抱いてるんじゃないかと疑えるくらい妖しいので、なんの問題もないんですが……。かといって、香里のほうからアクションを起こすかというと、それはあり得ないんです。よっぽど理性の壁が薄くなってるときで、ヤケにでもなってるような状況でもないと。そして、そんな状況に至るのを注意深く避ける人でしょう、あれは。


 ここまで書いて、あと書く時間がなくなりました。
 ここからあとはまた後日の文章です。


 忙しい! なんなんだこの忙しさは。
 平日の夜になんでこんなに客が押し寄せるか。
 店長として考えればいいことなのだろうが、予定が立たんわこんなんでは。


 てなわけで、今日もテキスト書き。


 今日は銀行に行きがてら、フィッシュマンズの「ナイト・クルージング」なんか聞いてたわけですが。
 「窓は開けておいてよ。いい声聞こえそうさ」という歌詞を聴いて、ふと魂がポエマーの人の言葉の使いかたってのはこんなものなのだろうな、とか思いました。
 夏の終わりの夜のドライブ。
 窓から入ってくる風は、暑熱の向こう側にある秋の気配の、もどかしいような歩みを感じさせる。熱と涼気。入り乱れる世界。
 てな空気のなかで、この「ナイト・クルージング」という曲は着想されたと思うのですけれども。
 窓から入ってくる風は確かに気持ちいいと思うのですけれども、だからといって「いい声」なんて正体の知れないものが聞こえてくるはずがありません。この詞を書いた人にとっては「いい声」とか「いい音」とか、そういうものを聞くのが快楽であるに違いなく、だから「いまのこの気分のよさ」を「いい声聞こえそうな気分」ということで表現したんだと思う。感情や感覚に勝手に言葉が乗る。その言葉が、たとえ他人には容易には理解できないとしても、なにか異様にセンシティブで、たとえば「言葉」という不便なメディアを媒介しているにもかかわらず、他人の無意識にそのまま届くような状態であるとき、それは「詩」と呼ばれるのだと思うわけです。
 そういう言葉を綴るためには、その人の感受性が生のままで何者にも(常識とかそういうの)に汚されていないことが前提条件として必要で、さらには、無意識の領域まで、深く「言葉」というものが浸透してないと厳しいでしょう。
 逆に、用語としてあってるかどうかはわからんけど、言葉を「意味」としてでなく、イメージとして把握することが、詩を読む人に求められる素養なんだと思う。イメージや感情、そのほかかたちのないもの、だれにも共有されずにいる不可解なものに、なにか言葉が張り付けられているような状態。それこそが詩の原風景なのかな、と。
 そう考えてみると、言葉というのはまことに不思議なもので、だれにでも共有されなければ意味をなさないものなのに、詩という場においては、言葉を発信した人と、それを受け取るあいだに「意味」において確実に誤差があるはずなのに、その誤差を超えて心にそのまま届く「可能性が」ある。それはなにか、とても奇跡的なことだと俺は思う。
 問題は、そんな奇跡的な出会いがそう転がってるはずもないってことなんだけど。

 ああ、もう一つ、詩を書くために必要な資質があった。
 世界と断絶している魂の遠吠えでなければならないってことだ。それが絶叫であろうと、悲しみであろうと、あるいは日常のなかの些細な幸福をしみじみと噛みしめるための言葉であろうと。

 詩は孤独な世界から生み出されて、孤独な心に届く。
 それで俺はいつも思うのだ。悲しい国から生まれて、悲しい歌をうたう人々が常にいるのだと。

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索