沈丁花と排ガスと祐巳すけのパジャマ姿(鎖骨重要)
2004年2月22日 今年初めて「春」と呼べるような陽気の日でした。妄想する人はだれしも「妄想に入りやすい状態」とでも呼ぶべき条件というのがあると思うのですけれど、俺の場合それは「空気」と「音楽」です。冬から春に移りかけの空気のなかに沈丁花の香りが漂ってくるような状態がとても妄想的にヤバい。今日も今日とて職場からの帰り道、どこかから漂ってくる沈丁花の香りと自動車の排ガスのにおいが入り混じった空気のなかで、果てしない気分になってました。なんかこう、それはせつなさとか郷愁とかそんなふうにしか呼びようがないものです。たぶんそれは、人が本来経験しているはずの、いくつかの幸せな感情を俺は知らず、そうしたものはすべて自分の空想のなかにしかなかったからだと思う。自分のなかに閉じ込めておけない「幸福」に対する漠然とした憧れは、大気のなかに拡散していくしかなかった。物体の境界線が曖昧になりそうな、ぬるい春の昼下がりに。蒸し暑い真夏の夜に申し訳程度の林から吹いてくる微妙な温度差の涼しい風を顔に受けて。人気が途絶えて死にかけているようなビル街の真んなかで。俺はいつも抱えきれない感情を放出して、俺には見えないけれどこの世のどこかには存在していると信じていた、奇跡のような愛しい一瞬を夢みていた。
最近、ちょっとしたきっかけがあって、エホバとかの新興宗教をネットであれこれと調べていた。読んでいて、気分が悪くなった。そこに描かれていたのは、あまりにかつての俺と似通った人たちだったから。違う点があるとすれば、俺の宗教は、俺に幸福な未来を約束しなかったこと。そして、俺以外に信じる人はだれもいなかったということだ。そして、俺はその世界を追い出されたあとも、焼け付くような思いで、その世界を愛しく思っている。
たぶんフィクションは、俺にとって、その場限りの麻薬で、まやかしで、強いアルコール分を含む悪酔い必須の安酒で、安易な気休めを与える新興宗教のようなもので、俺を十年間の薄暗い闇に閉じ込めたもので、つまり現実に役立つ何者をも俺に与えなかった。
そして俺は、世界中に叩きつけるような思いで、やはりこう書いてしまうのだ。
それでも真実はそこにある。
本当に美しいものは、そこにしかない。
世界中のだれもが信じなくても、俺はそれを信じる。祈るように、それを信じる。
沈丁花と排ガスの混合された夜の空気に漂う、歪んだセンチメンタリズムに狂わされながら、そんなことを思いました。
とかゆっておきながら、こんな文章を書いた直接の理由は、祐巳すけがかわいかったからなんですが。アニメのキャプ画像で、祐巳すけの百面相がありまして。それ見てたら、急になんか心臓のあたりが異変を来しまして。ああなんていうのか、かつてならここで祐巳すけに対する思いを発狂しそうな螺旋を描きながらダメ神の導きで地底の萌え人の墓場まで上り詰めることができたんですけど、現在はその行為にもう意味がないことを知ってしまっているので、この感情をうまく爆発させる方法がありません。しいて言えば俺の世界が祐巳すけで埋まってしまえばいいのに、という感じです。いまこの瞬間、俺にとって世界中のどんな存在よりも祐巳すけが「おんなのこ」で、泣いたり笑ったり、百面相するすべての瞬間の祐巳すけが「おんなのこ」で、俺はそんな「おんなのこ」な祐巳すけのすべてにほおずりしたいという爆発的な欲求を抱いて悶える深夜の3時。だからそれはもう、祐巳すけがかわいくてしょうがないということでありまして、たとえば朝起きてパンにマーガリンを塗ってると祐巳すけがもうかわいくてぎゅーってしたくなる。靴をはいて「いってきまーす」っていうその声がかわいくて頭なでたくなる。ちょっと眠くてあくびしてるその顔もかわいくて独占して地下室に閉じ込めたくなる。いや、なりません。
きっと祐巳すけがいちばん醜い感情を抱いて、だれにも見られたくないような表情で暗い部屋の片隅にいるときですら祐巳すけがかわいくてどうしようもない。全部を自分のものにして壊すくらいに愛したい。
まあ、この感情が自分のどのあたりに起因してるのか、いまの俺は充分に自覚的なわけなんですけど、自覚的であることは快楽を損ないません。だって祐巳すけかわいいから。思考停止でもなんでもいい。だって祐巳すけかわいいから。ばかで不器用で愚かであらゆることに無自覚で、自分が生きてることぜんぜん疑問を抱いてなくて、あたりまえのように光の当たる場所にいて、いろんな人の愛情を一身に受けて、俺にとっては憎悪の対象でしかないそうした要素をそのまま含めてかわいくてしょうがないから。
というようなことはさておき、祐巳すけとデートしたい。
パジャマ姿の祐巳すけと一緒に深夜番組見てだらだらしたい。そんで、あいた襟からのぞく白い肌とか鎖骨とか見て瞬発的にこみあげる劣情になんとか耐えて、でも子供のころ雷が怖くてしがみついてきた祐巳すけの体の軽さとか不意に思い出して発狂したい。
祐巳すけとジェットコースター乗りたい。
あーもうキリないんでやめますね。
最近、ちょっとしたきっかけがあって、エホバとかの新興宗教をネットであれこれと調べていた。読んでいて、気分が悪くなった。そこに描かれていたのは、あまりにかつての俺と似通った人たちだったから。違う点があるとすれば、俺の宗教は、俺に幸福な未来を約束しなかったこと。そして、俺以外に信じる人はだれもいなかったということだ。そして、俺はその世界を追い出されたあとも、焼け付くような思いで、その世界を愛しく思っている。
たぶんフィクションは、俺にとって、その場限りの麻薬で、まやかしで、強いアルコール分を含む悪酔い必須の安酒で、安易な気休めを与える新興宗教のようなもので、俺を十年間の薄暗い闇に閉じ込めたもので、つまり現実に役立つ何者をも俺に与えなかった。
そして俺は、世界中に叩きつけるような思いで、やはりこう書いてしまうのだ。
それでも真実はそこにある。
本当に美しいものは、そこにしかない。
世界中のだれもが信じなくても、俺はそれを信じる。祈るように、それを信じる。
沈丁花と排ガスの混合された夜の空気に漂う、歪んだセンチメンタリズムに狂わされながら、そんなことを思いました。
とかゆっておきながら、こんな文章を書いた直接の理由は、祐巳すけがかわいかったからなんですが。アニメのキャプ画像で、祐巳すけの百面相がありまして。それ見てたら、急になんか心臓のあたりが異変を来しまして。ああなんていうのか、かつてならここで祐巳すけに対する思いを発狂しそうな螺旋を描きながらダメ神の導きで地底の萌え人の墓場まで上り詰めることができたんですけど、現在はその行為にもう意味がないことを知ってしまっているので、この感情をうまく爆発させる方法がありません。しいて言えば俺の世界が祐巳すけで埋まってしまえばいいのに、という感じです。いまこの瞬間、俺にとって世界中のどんな存在よりも祐巳すけが「おんなのこ」で、泣いたり笑ったり、百面相するすべての瞬間の祐巳すけが「おんなのこ」で、俺はそんな「おんなのこ」な祐巳すけのすべてにほおずりしたいという爆発的な欲求を抱いて悶える深夜の3時。だからそれはもう、祐巳すけがかわいくてしょうがないということでありまして、たとえば朝起きてパンにマーガリンを塗ってると祐巳すけがもうかわいくてぎゅーってしたくなる。靴をはいて「いってきまーす」っていうその声がかわいくて頭なでたくなる。ちょっと眠くてあくびしてるその顔もかわいくて独占して地下室に閉じ込めたくなる。いや、なりません。
きっと祐巳すけがいちばん醜い感情を抱いて、だれにも見られたくないような表情で暗い部屋の片隅にいるときですら祐巳すけがかわいくてどうしようもない。全部を自分のものにして壊すくらいに愛したい。
まあ、この感情が自分のどのあたりに起因してるのか、いまの俺は充分に自覚的なわけなんですけど、自覚的であることは快楽を損ないません。だって祐巳すけかわいいから。思考停止でもなんでもいい。だって祐巳すけかわいいから。ばかで不器用で愚かであらゆることに無自覚で、自分が生きてることぜんぜん疑問を抱いてなくて、あたりまえのように光の当たる場所にいて、いろんな人の愛情を一身に受けて、俺にとっては憎悪の対象でしかないそうした要素をそのまま含めてかわいくてしょうがないから。
というようなことはさておき、祐巳すけとデートしたい。
パジャマ姿の祐巳すけと一緒に深夜番組見てだらだらしたい。そんで、あいた襟からのぞく白い肌とか鎖骨とか見て瞬発的にこみあげる劣情になんとか耐えて、でも子供のころ雷が怖くてしがみついてきた祐巳すけの体の軽さとか不意に思い出して発狂したい。
祐巳すけとジェットコースター乗りたい。
あーもうキリないんでやめますね。
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